徳永氏

(称藤原北家頼通流)
 徳永氏の祖は、『寛政重修諸家譜』によれば、藤原北家頼通流という。すなわち、「いまの呈譜に、関白頼通の四代の孫少納言家隆の男美作守昌隆の後胤式部律師興昌がとき乱をさけ、近江国徳永村に閑居し、これより徳永をもって家号とす。土佐守昌利は昌隆二十四代の孫なりといふ」とある。
 もっとも『近江輿地誌略』には、「寿昌は神崎郡の住人、其の先は予州河野が十八家の一也。中頃、当国に徒りて、佐々木家に仕ふ」とみえて、まったく異なる系譜を記しているのである。
 そのいずれが正しいかは不明であるが、苗字の地は神崎郡徳永村であったことは間違いないところであろう。とにかく、寿昌の父昌利より以前の経歴については諸書記すところがない。
 寿昌は、『寛政重修諸家譜』では、「ながまさ」としているが、高柳光寿・松平年一の『戦国人名辞典』では「ひろまさ」としており、当時、寿昌がなんと呼ばれていたかは明らかではない。
 寿昌については『藩翰譜』に、「石見入道寿昌は、初め越前の守護柴田勝家が猶子伊賀守勝豊の家の老なり。勝家と勝豊とは年ごろ其の間快からず。羽柴・柴田の軍起こるに及んで、秀吉、石見守等を召して、其の主人伊賀守が許に使として、味方に与すべきよしを云い送らる。勝豊、頓みて義父勝家に背きて秀吉に心を通ず(中略)。石見守、この後秀吉の御家人となされ、美濃国松木の城を領してけり」とあり、美濃国松木島の内において二万石を与えられ、高松城の城主となっている。
 関ヶ原の戦いは東軍に属し、美濃国の駒野城などを攻め、戦後二万余石を加増され、美濃高須城主となった。子昌重も父とともに関ヶ原の合戦に従軍、慶長十年(1605)秀忠の将軍宣下に供奉し、同十七年父の跡を受けて、高須五万六百石余の城主となった。大坂の陣にも従軍、元和三年(1617)新田を併せて五万三千七百石余を領し、寛永三年(1626)家光の上洛にも供奉した。
 しかし、寛永五年二月、前に命じられていた大坂城石垣普請助役工事の遅滞を理由に除封され、出羽庄内酒井家にお預けの身となり、所領は没収され配所で没した。長男昌勝も父に連座して、越後新発田藩主溝口家に預けられたが、のちに赦され、二千俵を与えられた。子孫は二千二百石の旗本として存続した。 

■参考略系図
詳細系図不詳。