遠江由比氏
竪三つ引両
(大宅氏流/三浦氏一族?)

 駿河国庵原郡由比郷から起こった。大宅大三大夫の曾孫大次郎光延が、源頼朝から駿河国高橋・由比・西山を与えられ、子の光盛に高橋郷を、光高に由比郷を、季光に西山郷を与え、光高は由比大五郎を称したという。
 由比大次郎光時の代には、遠江国守護今川範国の被官として、遠江の守護代に任じられた。その孫に弥五郎光行がおり、以来、直任・光家・光詔・光秋・光張・光教・正信・正純らの名が知られる。
 大永三年霜月二十一日付豊前守光規譲状写に由比寅寿丸とあるのが初見。寅寿丸のちの光澄が惣領職として、駿河国の内に由比郷・入江庄・泉庄・中田村・富士上方、遠江国に来福を譲られたことが知られる。そして、天文八年前後の九月23日付今川義元発給書状の段階で家督を継承したことがわかる。
 光澄は蒲原城の在番をつとめたようで、天文二十年過分な借用米銭のために訴訟を申し出て、米は六年間に六百俵、代物は四年間に七十貫文を沙汰することになり、これまでの旧借を帳消しにしてもらう判物の発給を受けていることからも、義元から在番の功を賞されたものと思われる。
 かれの知行知は前記のほかに、駿河上原・高橋などがあったことが、氏真から永禄11年九月に由比助太郎(光資)に宛てた判物から知られる。同文書は三浦元政を奏者としている。
 また、高橋郷蜂ケ谷の八幡宮所蔵棟札によると、同所は永亨年間から由比氏が代々知行し、清光ー光成ー光朝ー光広ー輝光と相伝された。

■参考略系図