小佐手氏
割菱/花菱
(清和源氏武田氏流)
   
 於佐手とも書く。甲斐国山梨郡に見える小佐手の地は、長手とも書き、地名の由来は、この地が東境の東林山山すそから、この地の中央部にかけて細長い微高地が続くので長手とよび、小佐手となった。
 戦国期武田氏に仕えた小佐手氏は、武田信重の子永信が小佐手村に住んで小佐手氏を称したことに始まる。すなわち、清和源氏義光流武田氏族である。小佐手には小佐手氏の菩提寺東林院があり、「宝徳元年三月十七日、剣鋒浄俊禅定門(小佐手右京大夫)」の位牌を伝えている。信俊は永信の別名であろうか。
 永禄十一年(1568)武田信玄は今川氏真を駿府館を遂い、氏真は、今川氏筆頭老臣である朝比奈泰朝が守る掛川城に落ちていった。十二月十五日であった。しかし、掛川城も徳川家康の軍に攻められることになる。  氏真が掛川城に落ちていったことは、すぐ同盟者である小田原城の北条氏政のもとに届けられた。翌年正月、氏政はすぐ、自ら四万五千という大軍を率いて氏真救援のため駿河に入った。ところが、すでに駿府を占領していた武田軍は一万八千の兵で薩垂峠を固めた。
 薩垂峠付近は東海道の難所として知られるところで、山が駿河湾に迫り、交通可能なところは薩垂峠のわずかな地点に限られていたのである。そのため、四万五千という大軍の北条氏政は、武田軍に道を阻まれる形となり、そこから西に進むことができなかった。こうして薩垂峠をはさんで、永禄十二年一月十八日から四月二十日まで、戦いが繰り広げられたが、勝敗はつかず、結局、両軍は兵を撤退することになった。この薩垂峠の戦いにおいて永信の孫信広が戦死している。
 ところで、掛川城に逃げ込んだ氏真は、徳川軍の攻撃をよく防ぎ、長期戦となっていった。そして、北条氏の援軍を待ったが、三月、家康自身も出馬して掛川城下で激戦となったが、勝敗はつかなかった。やがて、北条氏の援軍は武田氏にはばまれて帰国、家康もこれ以上戦いが長期化することは、武田信玄との関係においても不利と考え、ついに講和にもちこみ開城させた。五月十七日のことであった。この日が実質的に今川氏滅亡の日となった。
 『一蓮寺過去帳』には、永禄年間ごろにヲサテ殿がみえる。また、『寛政重修諸家譜」に、武田氏滅亡後、薩垂峠で戦死した信広の子信房が徳川家康に仕えたとある。以降、子孫は徳川旗本家として続いた。

■略系図