美濃高木氏
丸に違い鷹羽
(清和源氏頼親流)

 高木氏の苗字の地は三河国碧海郡高木村という。系図などによれば、源頼親の七世の孫蔵人判官代信光がはじめて高木村に住んで高木氏を称したという。『寛政重修諸家譜』には貞政から記されているが、その冒頭に「今の呈譜に、貞政は判官代信光が十五代の孫なりといふ」とみえる。
 この貞政が、美濃高木氏の初代に数えられ、弘治年中(1555〜58)に斎藤道三に仕え、美濃国内の庭田・西駒野・羽根・髭丸・戸河・関の六ケ郷を領し、駒野城に拠っていたのである。
 貞政のあとは子の貞次が継いだが、貞次は病気がちで、結局、樋口氏から養子を迎えて、あとを継がせることになった。これが貞久で、養父貞次と同じく斎藤道三に仕えたが、斎藤氏が滅んだあとは織田信長に仕え、天正八年(1580)には信長から五百四十二貫余の所領を与えられている。
 本能寺の変によって信長が没したあと、信孝に仕えたが、信孝が自刃したあと、駒野にもどって閑居してしまった。のち秀吉、さらに家康に見い出されている。
 貞久の子貞友は、父貞久と同じく斎藤家の没落後は信長に仕え、天正三年の長篠の戦いにおいて戦功をあげ、信長死後、さらに信孝死後、父と一緒に駒野に閑居していたが、小牧・長久手の戦いに際しては、母を人質として信雄に送り、信雄方の軍勢に加わっている。
 天正十八年、信雄の没落で、一時、加藤光泰の家臣となり、さらに、慶長二年(1597)家康に属し、関ヶ原の戦いでは東軍で活躍し、子孫は幕臣となっている。

■参考略系図