相馬岡田氏
亀甲に花菱*
(桓武平氏千葉氏流相馬氏一族)
*不祥。相馬氏の家紋を
 参考掲載した。

 岡田氏は、桓武平氏千葉氏流相馬氏の一族。相馬胤村の次男で通称は彦三郎胤顕が、十三世紀に相馬家から分かれて以来、数多ある相馬一族の中でもっとも重用された。鎌倉から室町、そして江戸時代・明治維新までの約五百年間、相馬家の一門筆頭として宗家を支えた。
 元来、相馬岡田氏は、下総国相馬郡泉村を所領としており、「泉」氏を称していた。このころの相馬氏庶流は、惣領家に対して敵対心を持つ者も多く、また惣領家の「被官」でもなかった。とくに泉氏はみずからも総領権を有し、幕府からも直々に『関東下知状』を受け取る独立した御家人であった。しかし、その一方で、相馬嫡流家を宗家として尊重し、互いに密接な関わりをもっていた。

●南北朝の争乱

 鎌倉時代末期、相馬重胤が奥州へ下向すると、泉氏の胤康もその勢に加わってともに陸奥国へ赴き、陸奥国行方郡岡田村に館を構えて、初めて岡田氏を称した。胤康は相馬郡泉村・行方郡波多谷村・岡田村・飯土江狩倉(一部)の譲状をうけ、さらに南朝の陸奥国司・北畠顕家からも相馬郡手賀村・藤心村と行方郡八兎村の所領を認められた。さらに、建武二年(1335)、顕家は黒川郡新田村の新地を認めた。宗家の相馬重胤も顕家から所領安堵を受けていることから、相馬一族は後醍醐天皇の建武新政府に組み込まれていたものと思われる。
 しかし、建武三年(1336)、後醍醐天皇の時代錯誤な独裁政治に反発した足利尊氏ら武士たちは「幕府」を復活させるため、後醍醐天皇に対して反旗を翻した。以後、半世紀にも及ぶ南北朝内乱時代の始まりであった。尊氏は陸奥守・北畠顕家に対抗するため、一族の斯波家長を奥州探題に任じて奥州に派遣し、相馬重胤・相馬(泉)胤康らは斯波氏に味方して、南朝方の伊達氏・標葉氏と戦った。
 建武三年一月、京都にあった北畠顕家は、ふたたび多賀城をめざして東海道を北上してきたため、重胤・胤康は斯波家長に従って鎌倉へ下り守りについた。そして、同年四月、鎌倉に迫ってきた北畠勢と片瀬川を挟んで合戦におよんだが、胤康は若党の飯土江義泰とともに討死。一方、相馬重胤は鎌倉まで退いて応戦したものの、ついにかなわず、鎌倉法華堂にこもって自刃した。
 胤康が討死にしたとき、嫡子胤家は奥州で石塔源蔵人の手に属して南朝側の領主と戦っていたようで、こののち、父の戦功と自らの戦功に対する恩賞を執拗に求めている。戦乱の中にあっても、確実に恩賞をもらって所領を増やそうという武将の生き様が伝わってくる。
 胤家は歴代岡田相馬氏の惣領の中でも最も活躍が見られる人物で、南朝勢力との戦いに功績をあげ、恩賞として所領安堵と新領の安堵など、「所領争い」に明け暮れていた節も見える。彼は父・胤康だけでなく、大叔母(相馬胤元後家)、叔母などからも「譲状」を受け、胤顕系相馬氏惣領として一族に対しての大きな権力を持つにいたった。

●相馬宗家の重臣へ

 しかし、南北朝時代、岡田氏当主は夭折などが相次ぎ、岡田相馬胤家入道浄賢は永徳二年(1382)、孫の鶴若丸(のちの岡田胤行)の烏帽子親に宗家・相馬憲胤を要請したことから、岡田氏は相馬氏の家中に取り込まれることになったと思われる。胤行以前の岡田相馬氏は「相馬」を称しており、胤行から「岡田」を称していることを考えると、胤行は宗家から本拠・岡田村などを「安堵=従属」されたと考えられる。
 とはいえ、その後も岡田氏は一門の重鎮として重用され、室町時代には相馬領内の一方の大将をつとめた。室町後期、岡田氏は泉氏(岡田一族)・堀内氏(相馬庶流)とともに「相馬三家」として宗家を支え、その筆頭が岡田氏であったのは先述のとおりである。江戸時代の藩政下にあっても「副大将」とよばれ、「御一門」の筆頭として幕末を迎えた。
 余談ながら、相馬家老の泉氏や重臣の大甕(おおみか)氏、水谷氏、立谷氏、立野氏、深野氏などは、岡田氏から分かれた庶流家であった。また、岡田氏に代々伝わる文書『相馬岡田文書』は、鎌倉期から室町時代にかけての貴重な史料として、つとに有名なものである。

■参考略系図
『千葉氏の一族』に紹介されています「岡田氏系図」を参考にさせていただきました。