相馬藤橋氏
九 曜*
(桓武平氏繁盛流標葉氏一族)
*藤橋剛志様から情報をいただきました。
 家紋は九曜と二引、本来角九曜なのだが
 いつの頃からか通常の九曜になったと。
 桓武平氏千葉氏流相馬氏の一族。実は、常陸大掾氏流標葉氏の流れを組む。中村藩一門・泉田氏と同族であり、同じ時期に相馬一門に準じる家格を与えられた。
 標葉氏の初代の隆義の十一代の後胤・隆豊が天正四年三月、相馬盛胤に通じて標葉宗家の左京大夫清隆を攻めた功績によって、相馬家の通字「胤」と相馬家の幕紋「繋ぎ馬」を与えられて、一門に準じる家格を与えられた。隆豊は、「出羽守胤平」と称して、中村藩重臣となった。
 天文十一年(1542)、相馬顕胤は紀伊守胤泰に宇多郡石上・新沼を与え、藤橋村から移ることを命じた。永禄六年(1563)、中村式部の反乱では、石上堡を守って中村勢を防いで奮戦するが、多勢にかなわず火を放って退却し、相馬盛胤と合流した。同八年(1565)には、伊具郡小斎堡主とされ、同郡金山に館を構えた。嫡男・胤清は金山彦四郎を称し、次男・胤長は石上邑に住んで石上玄蕃を称した。
 しかしその後、ふたりの子を病気で失い、胤泰自身も老い、国境の守備という大役はもはや成し難いとして盛胤に訴えたが、胤泰の武勇は近隣に聞こえていると、その訴えは退けられた。しかし、胤泰は子を失ったこともあり、ついには独断で剃髪して藤橋邑に隠棲してしまった。盛胤はこれを怒ったが、胤泰の謹慎している態度を見てこれを許し、藤橋邑と下浦邑の一部を隠居料として与え、木幡出羽守政清の次男を養子として迎えさせ、刑部丞隆重を名乗らせ、藤橋氏の家督を継がせた。このとき隆重十三歳。
 のち、義胤から「胤」を与えられて「胤重」と改めている。しかし、知行は二百石に減地された。そして、慶長七年(1602)の中村藩成立と同時に中村城下に館を移した。
 胤重の子・胤清は故あって百六十五石に減地され、その子・隆重(月斎)、その子・四郎左衛門常隆まで藩の要職を勤めたが、常隆は享保元年(1716)に故あって所領を没収されて蟄居を命じられ、同六年(1721)、自刃して果てた。その子・秋隆は出仕せずに剃髪して仏門に入り、藤橋氏の正嫡は滅亡した。
 ところで、藤橋胤泰の末子・家胤は新沼道海という僧侶を斬殺したことから相馬家を出奔、越後の上杉氏を頼って柿崎氏の家臣となって柿崎に住し、上杉氏の米沢移住に従わずに柿崎に定住した。ただ、この僧侶斬殺の事件は一説には金山胤清のおこしたものとして伝えられている。

■参考略系図