下曾根氏
割菱の内花菱
(清和源氏武田氏流)
   
 下曽根とも書く。甲斐の戦国大名武田氏の一族で、武田信重の子賢信が八代郡曽根郷に住んで、家号にした。
 賢信の孫信恒は出羽守を称して武田信玄に仕えた。信濃小諸城将をつとめ『甲陽軍鑑』では、旗本武者奉行の一人になり、騎馬二十騎・足軽五十人持の侍大将で、天正十年武田左馬助信豊を謀殺した人ともある。出家して覚雲軒と号した。
 子の源六郎信秀は武田勝頼に仕え、天正起請文では武田親類衆に下曾禰源六とみえる。信秀の弟源七・弥左衛門尉は天正三年(1575)の長篠の合戦で討死し、下曾禰郷内の下曾禰氏の菩提寺に位牌が残されている。同寺は下曾禰氏の屋敷跡であるという。
 『寛政重修諸家譜』では、信秀の子信照は武田氏滅亡後徳川氏に仕え、天正十八年、平岩親吉に加わって小田原攻めに参陣し、武蔵岩槻城攻めで討死したという。信照が討死したことで、弟の信正が家督を継いで徳川家康に仕え、上野国碓氷郡の内で千石を知行した。
 信正の跡は嫡子信由が継ぎ、御書院番に列した。大坂の両陣に参加し、相模国大住郡のうちに新恩二百石を賜って、すべて知行千二百石となった。寛永十五年(1638)、島原天草の乱が勃発、信由は命を受け目付となって島原に出張した。同十九年御使番となり、布衣の着用を許される。その後、御目付となり、一柳美作守卒後の領地収公をはじめ、越後・越前・出羽・肥後・讃岐・陸奥などの国々に出っ張って職責をまっとうしている。
 信由は延宝八年致仕、多年にわたる奉公に対し、養老料として廩米三百俵を賜っている。以後、子孫は徳川旗本家として存続した。

■略系図