讃岐佐藤氏
三つ銭
(鎌足流佐藤氏)

    
 佐藤氏の始祖は、佐藤相模守公光である。阿波国一円に広がった佐藤氏の先祖は公光の四男相模守公俊の後裔と推察されている。『古城諸将記』『城跡記』などにみえる記事から、阿波佐藤一門は鎌足流佐藤氏を唱え「秀郷流」とはいわないらしい。
 『阿波国旗本幕紋控』ニ百八十氏のなかにみえる佐藤氏の幕紋は「三つ連銭」である。公俊から十三代の後胤佐藤伊賀守綱兼が細川頼春の旗下に属して、名西郡高原村に城を構えたという。
 同じく、管領細川頼春の旗下に属し、『四国軍紀』『土佐物語』に「大将佐藤六郎殿」と記されている佐藤氏は、佐藤清郷の一族で、白川武者所、六波羅評定衆に任じ、十四世を経て六郎基信が、延元ニ年(1337)に阿波国板野郡中富村に移住したという。
 基信から十代を経て、佐藤久右衛門長勝は元亀・天正年中(1570〜91)に桑野城主・須賀城主となり、長曾我部氏の大軍に攻められ、中富川合戦に一族の総帥佐藤長勝は討死し、妻も須賀城の炎のなかえ自害した。子孫は、阿波郡伊月村ほか三村の大肝煎、庄屋として続いたという。
【資料:佐藤一族】



■参考略系図