匂坂氏
丸の内三重亀甲
(藤原姓/清和源氏ともいう) |
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遠江国にかつて匂坂郷があった。現在の豊田町の北部、磐田氏との境に近いところに、匂坂西・匂坂下・匂坂中之郷という三つの字があった。そして磐田市にある匂坂上・匂坂新・匂坂中などとともに匂坂郷とよばれ、その地名を名乗る匂坂氏の名字の地でもあった。
匂坂は、向坂・勾坂と字はいろいろ使われており、『太平記』では鷺坂と記されている。匂坂氏については「匂坂氏系譜」『寛政重修諸家譜』などの諸系図によってかなり明かにされている。さらに、大阪府立中之島図書館に「今川一族匂坂家譜(以下匂坂家譜)」と題する冊子が所蔵されており、同書によって、戦国期在地領主の動向がかなり浮き彫りにされるのである。
匂坂家譜は、表題に今川一族となっているが、匂坂氏が今川一族であったかどうかは疑わしい。同書においても、冒頭に藤原氏であることを記し、また「匂坂家譜」でも、先祖は藤原共実の長子匂坂十郎則実としており、清和源氏足利氏流の今川氏と同族とは考え難い。ただ、「今川一族匂坂家譜」には、今川一族堀越氏を討伐した功により、一時期、堀越を名乗ることを許されたとあることから、そのことを重視して「今川一族」と表現したもののようである。
●近世への道程
いずれにしろ、匂坂氏は先祖代々匂坂郷を領し、今川氏親のときに今川氏に仕えたという。おそらく、今川氏親の遠江進出のとき、その軍門に降ったのであろう。匂坂家譜にみえる古文書写のなかで最も古い大永八年、すなわち享禄元年(1528)三月二十八日付、今川氏輝の判物文書によれば、匂坂長能は「匂坂上村同中村同関名牛牧村」の本領を安堵されたことが知られる。
そのあと、匂坂長能は、北遠中尾生城の守備を命じられて在番を行っており、土豪・地侍クラスよりはランクの上の武士であったことがわかる。氏輝死後、義元に仕え、今川氏の三河進出の戦いで戦功を挙げ、永禄九年(1566)五月に没した。家督は三男の吉政が継ぎ、同年九月、今川氏真から本領を安堵された。
家督を継いだ吉政は、そのまま今川氏に仕えた。永禄十一年、家康の遠江侵攻に際して今川氏重臣たちの寝返りの連鎖反応がおきた。世に「遠州錯乱」とよばれるもので、この時点でも匂坂吉政は親今川氏で、今川家臣団として位置付けられていた。
ところが、十二月、今川氏を離反した。しかし、はじめは武田信玄につこうとしたようで、信玄の重臣秋山信友に属そうと秋山の陣所を訪れた。ところが、兄政信の子政祐が「自分が匂坂の嫡流」だと売り込んだため、政祐を殺し、そのまま家康のもとに奔ったという。そして、家康から本領を安堵され旗本の一人に加わった。
その後、元亀元年(1570)六月二十八日、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が激突した近江姉川の戦いで、朝倉方の猛将真柄十郎左衛門を討ち取る武名をあげている。子孫は、徳川幕臣として続いた。
■参考略系図
・出自は家譜によって差があり、今川氏の一族とするもの、藤原北家井伊氏流とするものなどがある。
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