尚 氏
三つ巴(不詳/伝説に源為朝後裔)
 十三世紀の琉球は、文応元年(1260)に即位した英祖によって統治された。英祖日子は太陽を意味する。四代王城王の失政により、山南王・大里按司承察度、山北王・今帰仁按司ハニジ、中山王・王城王の三国に分裂した。この中山の支配はまもなく浦添按司察度王にとってかわられた。伊平屋島出身の佐敷按司尚巴志は中山王の武寧を滅ぼし、父思紹を中山王とした。
 さらに、山北王のハンアチ、山南王のタウマイを破って、十五世紀のはじめ琉球の統一を成し遂げた。巴志は父より王位を受け、首里を首都として首里城の基礎をつくった。このことは領内の馬天、与那石等の良港による海外貿易に負うところが大きかった。
 七代尚徳が没したとき、伊平屋島の農民出身で、六代尚泰久に仕えて財務・貿易を担当した金丸が政権を掌握し、尚円と称して即位した。以後を第二期尚王朝という。尚円の長子真は各地の按司から武器を取り上げ首里に集住させ、按司を掌握し身分制・位階制を定め国家の体制を整備した。また、中国・南方との貿易を重視し、最初の琉球黄金時代を築いた。
 尚寧は、慶長十四年(1609)島津義久に攻められ、寧と重臣は鹿児島に護送され、徳川家康・秀忠に謁し、三年後に帰国した。この間、島津氏は尚氏に沖縄本島以南のみの支配を認め、検地を行い貢租を定め、貿易統制等を管理した。以後、島津氏の監視干渉が続き、事実上薩摩の属国となった。
 明治維新により、最後の中山王尚泰の藩主としての支配は、明治政府の廃藩置県により終わりをつげ、尚氏は上京、のちに候爵となった。

■略系図