問田氏
唐花菱
(周防大内氏支族)

    
 百済の聖明王の子琳聖太子が周防国多々良浜に着岸し、その子孫が同国大内村に住み、以来、姓を多々良、氏を大内としたといわれている。しかし、これは創作された伝説であり、大内氏の出自は不詳というほかはなく、周防権介を世襲した在庁官人であったようだ。
 大内氏のことが歴史の上ではっきりしてくるのは、平安時代末期になってからである。仁平二年(1152)八月一日付の「周防国在庁下文」に、多々良氏三人、賀陽氏二人、日置氏二人、矢田部氏、清原氏の九仁が在庁官人として連署している。これに多々良氏三名の名前があるのは、この頃すでに周防国内で大きな勢力に成長していたことを示すものであろう。
 さらに、二十六年後の治承二年(1178)十月、多々良盛房・弘盛・盛保・忠遠の四人が流罪を赦されて、それぞれ常陸・下野・伊豆・安房の地から帰国したことが、九条兼実の日記『玉葉』に見えている。  多々良の名はその後も。養和二年(1182)の「野寺僧弁慶申状案」や、文治三年(1187)の「周防国在庁官人等解状」にも見えている。以上のことから、盛房のころ、在庁官人として最高の地位を占めていたことが知られる。
 このころから大内氏は、一族を周防国府周辺の要地に配して在地領主化させ、本拠地の吉敷郡大内を中心に勢力を拡大している。吉敷郡の宇野・吉敷・問田・黒川・矢田・陶の各氏、都濃郡の鷲頭・末武氏、佐波郡の右田氏などがそれである。

●大内庶流-問田氏

 各種の大内系図によれば、平安末期、大内盛房の子長房が吉敷郡問田を領し、問田を称した。BR>  氷上山妙見会の日、問田氏は歩射の弓太郎をつとめることを例とした。これは往昔、妙見を氷上山に祀るとき琳聖太子の子孫を求めたので、問田の大内畑から名乗り出で、神前において的を射たから恒例になったといわれる。
 長房より七世の孫の弘綱は石見守護代となり、その子弘胤は大内政弘に仕えてその奉行になった。長享元年(1487)足利将軍義尚の六角征伐に際し、出陣を求められた大内政弘は問田弘胤を名代として参陣させている。以て、問田氏の大内家中での重さが推察できる。
 永正八年(1511)、大内義興が将軍義種を奉じて上洛するのに従い、弘胤は船岡山の戦いで戦死した。このとき、随従していた弘胤の子興之は大力であり、父の遺体を左腕にいだいてなおも奮戦したという。
 興之の子隆盛も石見守護代になったが、大内氏天文の変に際して、陶晴賢に党し、大内義長に仕えて小座敷衆に列した。弘治元年(1555)、晴賢の嫡子長房が居城の若山城において杉重輔の襲撃を受けたとき、若山城に滞在していて闘死した。
【山口県大百科事典/日本の名族(大内氏の項)】

■参考略系図