奈多氏
三つ巴*
(宇佐姓)
*八幡宮の神紋として推察。 |
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奈多氏は豊後国安岐郷にある奈多八幡の大宮司家であった。社伝によれば、 出自は宇佐大宮司公基から分かれたという。そして、秀基は天台宗の神宮寺を廃して、禅宗の報恩寺を起こしたという。
奈多氏が歴史に大きく登場してくるのは、鑑基の代で鑑基は奈多八幡大宮司を継承し、その妻は大友一族の田北氏から迎えていた。鑑基は大友義鎮(宗麟)に属して社奉行に任じられ、豊前・筑前・豊後の社家の社領紛争などの裁判、 万雑公事、免許、祈祷祭事催促、社殿・神輿新造替の執行、軍勢催促に当たった。永禄期(1558〜70)ごろ、大内氏の勢力が北九州から撤収したことで、社奉行の地位を利用し、豊前宇佐神領の社領を奪取し宇佐宮社家との紛争を繰り返した。
戦国武将、奈多氏
鑑基は大宮司というだけではなく、大友氏の部将として、たびたび合戦に出陣した。永禄五年(1562)の豊前苅田松山合戦、同八年豊前長野筑後守の討伐、同十二年下毛郡高田・来縄郷への出陣など武家としての活躍も多い。そして、永禄十二年(1569)筑前立花鑑載攻めに参加して陣没した。一説に筑前の戦いで戦死したともいう。
鑑基には嫡男の鎮基をはじめ、武蔵田原親邦のあとを継いだ親賢、ついで政基の三人の男子があった。そして、鑑基の女子は大友義鎮(宗麟)の正妻となった。また、奈多氏としては、弘治四年(1558)ころに誠基、天正十一年(1583)ころに恒基がおり、いずれも鑑基の一族と思われるが、系譜的関係は不明である。
鑑基のあとは鎮基が継ぎ、奈多八幡大宮司をつとめ左衛門大夫と称した。妻は宗麟の女子で、父鑑基と同様に大友家の社奉行に任じられるなど大友氏に重用された。天正六年四月、日向土持氏討伐に際して、糸永・屋方氏らを伴って出陣。つづいて同年九月には、日向高城 耳川合戦に出陣した。耳川合戦は大友氏と島津氏との激戦で、島津氏の勝利に終わり大友氏の衰退を決定づける戦いとなった。以後、大友氏は衰退の一途をたどるようになり、島津氏は大友氏への攻勢を強めるのである。
鎮基は大友氏の部将として天正八年田原親貫の討伐、同十二年筑後 黒木実久の討伐など所々の戦いに出陣した。そして同十四年、秋月種実の日田郡侵入に対して大友軍の先鋒として迎撃し秋月軍を撃破した。ついで、島津氏と秀吉軍の支援を受けた大友勢とが戦った「 戸次河原の合戦」に加わったが、戦いは豊臣・大友連合軍の敗戦となった。翌十五年、鎮基は死去し、養子万福丸が奈多氏を継承した。
鎮基は父同様に社奉行の立場を利用して宇佐宮と争い、到津公澄誅殺事件、宇佐宮末社司宅放火事件、 安心院公糺領押領事件などを引き起こし、宇佐宮から無道の張行 、天下希代の悪逆と訴えられている。戦国末期の奈多氏父子は、大宮司というより戦国武将らしく、なかなかにしぶとい人物揃いであったようだ。
養子の万福丸は公家久我晴通から迎えたものだが、のちに京都に帰ったため奈多氏は断絶した。以後、奈多八幡宮の祭祀は泥谷井門氏 が当たった。
鑑基の女子は悪女か
ところで、大友義鎮の室となった鑑基の女子は、子息親家、甥の田原親虎のキリスト教 入信に際して強硬に反対、また、エステバン事件を起こすなど、強烈な反キリシタン派であったことが知られている。そのため、のちにキリスト教に入信した宗麟は、この妻を離別している。
また、強烈な反キリシタン派であった鑑基の女子に対してイエズス会士らは、イザベルのあだ名を与えて毛嫌いした。そのせいか、鑑基の女子は悪女として見られるが、見方を変えれば敬虔な仏教徒であったともいえるが、どうであろうか。
【参考資料:杵築市史/大分歴史事典 ほか】
■参考略系図
・杵築市誌などの記事から作成。奈多氏の系図はいまに伝わっていないという。
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