大沢氏
丸の内花杏葉
(藤原北家持明院流)

 沢は古語で「谷の口に近い山側の地」といい、古来から沢の付く地名は多い。当然、地名発祥の名字「大沢」も多い。主として甲信を中心に東日本に広がっている。
 もっとも顕われた大沢氏は、徳川旗本家で高家の大沢氏だろう。藤原道長の後裔持明院左中将基盛を祖にすると伝える。貞治年間(1362〜68)遠江国敷智郡堀江城主となった中将基秀以後、代々同地に居住した。大沢を家号としたのは、代々、丹波国大沢の地を領したことに因むという。
 今川氏に仕えて、堀江城を守った基相・基胤父子に至るまでの世系は必ずしも詳らかではない。

●近世への道程

 永禄十二年(1569)、徳川家康が遠江に侵攻、鈴木重路・菅沼忠久・近藤秀用らをして堀江城を攻めさせた。このとき、基胤は本丸に籠り、一族中安兵部少輔某を三丸において家康軍の攻撃を固く防戦した。このころ、遠江国の大半の武士は徳川方になびいていたが、基胤は今川氏真の命を奉じて堀江城を堅守していたのであった。
 しかし、大勢には抗し難く家康の命を受けた渡辺成忠の降伏勧告に従って家康に降った。このとき、家康より誓書を受け、遠江国崎村・櫛和田・無木などの本領を安堵されている。以後、徳川氏の麾下となった。
 元亀三年(1572)十二月、三方ケ原の合戦に際しては、加勢に松下某を得て居城を堅守した。天正三年(1575)四月、武田勝頼が長篠城を包囲し、五月には二連木牛久保に放火し、吉田に攻め寄せんとした。このとき、家康軍は寡勢でもあり、酒井忠次が殿をつとめて軍勢を吉田城に収めた。しかし、武田方の山県昌景は執拗に追ってきた。このとき、殿をつとめた酒井に加わって基胤も武田軍と槍を合わせ、高名をあらわしたという。
 基胤のあとを継いだ基宿は、天正八年、家康の駿河田中城攻めに従い、今川方の部将朝比奈駿河守の勢と戦い、奮戦して高名をあげている。その後、小牧・長久手の戦い、小田原の役に出陣した。関ヶ原の役にも出陣し、戦後、采地千五百五十余石を賜った。慶長六年(1601)、従四位下に昇り、同八年、家康の将軍宣下のとき、仰せによってそのことにあづかり、以後、摂家門跡諸公家往来のことを承った。
 基宿の子基重以降、千石ずつ二度の加増があって、しめて三千五百五十余石を知行し、子孫、代々高家に列した。
 その他、大沢家は藤原氏の流れが多く、秀郷流からは、小山朝政から十一代の裔小山朝氏の三男忠秀が下野国河内郡大沢村に拠って大沢氏を称した。同じ秀郷流佐野氏からも大沢氏が出ている。佐野広綱の子広貞が大沢右京亮を称して、大沢氏を起こしたものだ。
 北陸からは、藤原利仁の子孫で貞治年間に右衛門尉重基が大沢を号した。この系統は重の字を通字にしている。

■参考略系図