大草氏
庵に三階菱/轡に松皮菱*
(藤原氏支流)
*「見聞諸家紋」に掲載された
 大草氏の家紋。

 家伝によれば、三郎左衛門尉公経が足利尊氏に仕えたとあり、公経をもって始祖にしている。三河国額田郡大草を領して、大草を家号にしたと伝える。公経は正平四年正月、河内国四條畷における、足利軍と楠正行軍との合戦に出陣、先駆けして討死した。
 以後、足利家に仕えたが、世系が中絶し、公経より公重に至るまでの代々は詳らかにはできない。足利義政のころに成立したといわれる『見聞諸家紋』をみれば、奉公衆二番で大草伊賀守公延の名がみえる。家紋は「轡に三階菱」である。
 この公延は大草氏の通字である「公」があるところから、足利義政の時代における大草氏の一人であったものだろう。しかし、先にも記したように系譜的に位置付けることは不可能としかいいようがない。
 公重は将軍義輝に仕えていたが、三好・松永の乱によって義輝が殺害されると、山城国加茂に蟄居した。その後、細川藤孝の招きに応じて、丹波国田邉に至り、同地で死去した。嫡男公政も義輝に仕えたが、その死後牢人となった。
 公重の女子が秀忠室に仕えていたことから、公政、は秀忠に召されて拝謁した。
 公政には子がなく、妹が嫁いだ大舘伊予守晴忠の子らを養子にしていた。すなわち。公継・与六郎・高政の三人であった。公継・高政は秀忠に召されて、それぞれ知行を賜った。公継は上野国碓氷、下野芳賀両郡のうちにおいて采知六百石、高政は七百石であった。その後、高政の家は孫高忠の代に三千五百石の知行となっている。

■略系図