大条氏
竪三つ引両
(藤原氏山陰流伊達氏族)

  
 大条氏は伊達宗遠の二男孫三郎宗行が、伊達郡大条村に住んで大条を称したことに始まる。宗行のあと宗景─宗元─宗澄─宗助と続き、宗助のあとは留守景宗の三男が継いで宗家と称した。
 宗家は伊達晴宗に仕えて、天文二十二年(1553)、伊達西根大枝・刈田見明の内・刈田五賀の内・上長井小野川の内・信夫庭坂の内などの所領を安堵されたことが、『晴宗公采地下賜録』から知られる。
 宗家のあとは宗直が継ぎ、伊達政宗に仕えて天正十六年(1588)六月高倉城を治め、翌年五月には三春城の警備にあたった。ついで、政宗が相馬氏と戦った駒ケ峯の役にも出陣した。奥州仕置後に豊臣秀吉が起した文禄朝鮮の役に際しては上洛して伏見城を守ったことが知られている。その間、天正十九年に大条館から伊具郡大蔵村、ついで志田郡蟻ケ袋村に、さらに慶長九年(1604)には気仙郡に二千石余を与えられて同郡に移った。子孫は仙台伊達藩の奉行職などを勤め、江戸時代の中期には四千石を禄する大身となっている。
 ところで、宗直の弟実頼は天正十六年に別に采地を賜り一家を立てた。伊達政宗から恩遇も厚く慶長二年には采地百貫文を加増され伊具郡丸森城に居城した。一時、家を嫡子の元頼に譲って隠居したが、ふたたび召し出されて伊具郡高野・大蔵両邑に七十貫文を給されて国老を命じられた。嫡子の元頼は慶長十九年の大坂の陣に出陣して、陣中で没した。六男の宗頼は宗家の宗綱に男子がなかったため、家督を継いで大条宗家の当主となっている。

■参考略系図