尾張 林氏
二つ引両
(美濃稲葉氏一族)

 稲葉氏の一族とされる。名があらわれたのは秀貞のときで、『言継卿記』によれば秀貞の実父は八郎左衛門であることが知れ、『浅井文書』には秀貞の養父を林九郎勝隆であると記されたものがある。秀貞は信長重臣のなかでも関係資料に乏しい人物で、従来は実名を「通勝」とされてきたが、それは松永久秀の家臣「林若狭守通勝」と混淆された誤伝である。
 さきの『言継卿記』には「林新五郎秀貞」と記され、あるいは『天龍寺周悦文書』に「林佐渡守秀貞」と署名されていることからも、秀貞が正しい実名である。

●織田氏の重臣に列す

 天文三年五月に信長が誕生すると、信秀から「一のおとな」、すなわち宿老の首席を命じられた。のちに家督を継いだ信長の廃嫡を企てて挙兵するが、敗れて罪を許されて、同二十三年(1554)那古屋城代となっている。
 永録十一年(1568)、足利義昭を奉ずる上洛作戦に従軍し、天龍寺の周悦首座に将軍の下知と信長折紙の旨にまかせてその知行を安堵させており、秀貞が京都の政治に関与していたことが知られる。
 天正元年の将軍足利義昭と信長との抗争の際には、和平の起請文に織田方の年寄として佐久間信盛や柴田勝家らと署名、さらに翌二年七月には上杉謙信の老臣直江景綱に対して信長朱印状の副状を発給し、来秋に信長が出陣して武田勝頼を挟撃する旨などを報じていることなどは、織田家中における秀貞の政治的地位を推測させる。
 『信長公記』における戦歴の初見は、天正二年(1574)七月の伊勢長島一向一揆攻めの記事で、島田秀満とともに「かこひ舟」を造り海上から攻撃した。
 その後、信長嫡男信忠に付属したようで、天正五年十月、公家衆が妙覚寺に寄宿する信忠に松永久秀討伐の凱旋を祝賀したとき、奏者役として「林」の名がみえ、これは秀貞をさすものと考えられる。さらに。翌六年播磨神吉城攻めに際して、信忠から、秀貞や市橋長利ら七人が番替わりに警固することを命じられていること。また、翌七年に熱田社の祝師宛に出された信忠書状に「尚林佐渡守可相達候也」とみえ、秀貞が信忠の副状を発給する地位に付いていたことなどから伺われる。

●突然の没落

 天正八年八月、秀貞は信長から突如として遠国へ追放されてしまった。その理由については『信長公記』には「子細は先年信長公御迷惑の折節、野心を含み申すの故なり」と記す。また『当代記』には「これは昔年三十年以前、尾州名護屋において謀叛を企て、その科なり」と記している。すなわち、尾張時代に信長の弟勘十郎信勝に与して信長の廃嫡を謀った罪による追放という。
 その後、秀貞は京都に潜伏して間もなく没した。なお、子息の新二郎は伊勢長島一向一揆攻めの戦で戦死。子孫は尾張藩に仕えて続いたとされる。

■参考略系図
・尾張林氏は、美濃の稲葉氏の一族といわれているが、系図にみえる通安以前は稲葉氏の系図に付会したようである。ただ、通安の弟とされる通忠の曾孫正成が、稲葉重通の養子となって稲葉家を継いでいることなどから、何らかの関係はあったものであろう。