新田氏
大中黒
(清和源氏義国流) |
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新田氏の祖義重は、八幡太郎義家の三男義国の長子であり、義重が新田氏、弟の義康は下野国足利に拠って足利氏の祖となった。
治承四年源頼朝が挙兵したとき、はじめ義重は参加を拒んだが、結局は頼朝に帰属した。このためであろう、以来、新田氏は、足利氏に比べて鎌倉幕府にあって不遇の立場にあった。義重の三男の義兼は、新田庄内二十七郷を相伝して新田の本家を継いだ。
義重の長男義範は上野国多胡郡山名郷に分家して山名氏となり、二男義俊は同国碓井郡里見郷に分家し、義俊の孫義基が里見氏、義継が大島氏、時成が烏山氏を称した。大島義継の子氏継は大井田氏を称して越後の妻有庄に発展した。四男義季は新田郡世良田村の得川に分家し、その子の頼氏は世良田を称した。また五男の経義は額戸氏を名乗っている。
鎌倉時代の中期になると、義兼の孫政義が大番役で在京中、出家したため、所領を没収され、代わって庶流の岩松・世良田氏が栄えた。しかし、その世良田氏で頼氏が佐渡に流されたため、宗家が大館・堀口などの分家を出して勢を回復し、義貞に至っておおいに名を上げた。
義貞は元弘三年(1333)鎌倉に攻め入って北条氏を滅ぼし、建武政権下で、武者所頭人・越後守護などに任じられた。しかし、足利尊氏が反旗を翻すにおよび、播磨国において赤松氏の討伐に失敗し、湊川では楠木正成と足利尊氏を迎えうったが敗戦、ついに越前藤島において敗死してしまった。義貞の弟脇屋義助は、義貞の死後、伊予に赴いて奮戦し、義貞の子義興・義宗らも南朝方として各地に転戦したが、相次いで戦死し、嫡流は滅んだ。
これに対して、有力な庶流家である山名・里見および岩松の諸氏は終始足利方に属し、新田庄の支配権は岩松氏に帰した。山名氏は室町幕府の要職を占め、里見氏は房総地方の豪族として発展した。
■参考略系図
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