和田氏
菱唐草
(大中臣氏後裔)
*群書類従所収の和田系図に
「笠験者は菱唐草也」と。 |
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中世に和泉国大鳥郡和田(和田川上流の旧大阪府大鳥郡美木多村)荘の荘官で、鎌倉幕府御家人であった武家。和田はかって『にぎた』、『みぎた』と称したという。この和田は『和名類衆抄』の和田郷には「邇岐田」「爾木多」とあり『和田(みきた)文書』の建武元年(1334)楠木正成仮名書挙状には「みきた」、楠木惟正書状には「みきた殿」とある。中世には、この和田氏は「みきた」とよばれていたことが知られる。
系譜によれば大中臣姓であり、助兼の箇所には河内国の「矢田部住」と注書きがあるが、孫の助綱の箇所には「和田住」とあり、このころ山野を比定し開発を起こし、和田に入ったものと考えられる。鎌倉時代の和田氏の所領はその譲状などから、和田荘の(1)荘園所職(2)雑免田(3)名田畠(4)寺社に関する所職(5)池水・山林などに分けることができるが、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて外部に勢力の拡張を策し、河内国金田・長曽根両郷の在庁職や大歌十生長官職などを獲得している。
大鳥群美木田を本拠地とする和田氏の史料上の初見は鎌倉初期の建保二年(1214)の金剛寺への山野田畠寄進状であるという。鎌倉時代より、和泉国でかなりの勢力をもっていたことが、『和田文書』『金剛寺文書』などより推測される。
『太平記』では楠木氏の一族としているが同族関係なしとの説ガ有力である。和田の地名は各地にあり異流の和田氏も数多い。しかし、大鳥群美木田は、楠木氏の本拠地に近くそれぞれが勢力を伸ばしていく過程で婚姻などにより絆を深め同族化していっても不思議はないと思われる。和泉の和田氏は先にも記したように中臣氏系といわれているが、これに楠木氏系の和田氏が混在していったものであろう。
南北朝時代の動乱期では、南朝方の有力な氏族として活躍した。足利幕府に最終的に帰順したのは、応安七年(1374)以降である。明徳三年(1392)には新たに和泉守護となった大内義弘から和田下司職を充行われ、動乱期を乗り切ったようである。
応仁の乱以降、史料上の所見は少なくなり、一族は各地に分散し多くのものは帰農したものと思われる。
また、和田(わだ)氏の高家が同国和泉郡に岸城を築いて岸和田氏を名乗ったといわれるが、実のところ和田(にぎた)氏の一族と考えられている。
■略系図
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