伊達(成実)
竹の輪に舞雀
(藤原姓伊達氏一族)
 戦国大名伊達政宗を支えた武将に片倉景綱と伊達成実がいた。景綱を理の人とすれば、成実は武の人であったといえようか。成実は伊達氏の一門であった。
 成実の父は、伊達稙宗の三男実元。天文十一年六月、越後上杉氏の後嗣として出発する直前に、兄晴宗がこれをとどめんとして父稙宗を西山城に幽閉したため、伊達家中を二分する乱に発展した。いわゆる「天文の大乱」である。結果、実元の上杉氏への入嗣も立ち消えになった。
 元亀元年、中野宗時が輝宗に叛して相馬に逃亡したが、のちに宗時は実元をひそかに訪ねて伊達への帰参の依頼をしたという。しかし、輝宗はこれを許さなかった。天正二年、実元が二本松の支城八丁目を攻めとった旨を書状をもって報告したことが『伊達家文書』に残っている。同十四年七月相馬義胤が、二本松畠山氏と伊達氏の和睦を取り持った。実元はこれを政宗に取り次ぎ、伊達氏老臣らの評定によって和議を容れている。天正十五年四月、八丁目城において死去した。
 成実は実元の嫡男として永禄十一年に生まれた。母は伊達晴宗の女で生粋の伊達一族であった。政宗より一歳の年下であった。成実は人と形、英毅大略あり勇武無双と称された。  天正十三年、伊達氏が葦名氏と戦った人取橋の合戦には、成実の隊は敵軍の間に陣して功を挙げ、翌十四年畠山氏の滅亡後二本松城を賜り、安達郡三十三郷三万八千石を領した。同十六年郡山の役、同十七年摺上原の合戦、須賀川の役には伊達軍の中心勢力となって戦果を挙げた。
 天正十八年。、政宗の小田原参陣にあたり、時機を逸した行為であるとしてこれに反対している。同年、葛西大崎一揆討伐の時には成実は蒲生氏郷の人質となって名生城に入り、主君政宗に対する氏郷の疑惑を解いた。のち京都に赴く氏郷に同道して二本松に帰った。同十九年伊達氏の領地替えによって府城が岩出山に移ったとき、改めて伊具郡十六郷、柴田郡一郷を賜って角田城に入った。しかし、文禄二年朝鮮の役に従い、帰朝して伏見にあった成実はひそかに高野山に脱出してしまう。
 その理由というには成実には、戦功諸将に冠たるものがあったにもかかわらず、位録がその下におかれたのを不平としたとされている。留守政景が人を遣わして説得したが聞き入れず、ついに主命を帯びた屋代景頼によって角田城討伐を受ける。その結果成実の臣、羽田実景以下三十余人が討死した。慶長五年上杉景勝が五万石をもって成実を召そうとしたが受けなかった。同年秋、石川昭光、留守政景、片倉景綱らが主命により翻意を促したため、ようやく帰参、白石の役ののち亘理城主として返り咲き、一門に列せられた。
 元和の大阪の陣に出陣、寛永十五年には江戸に朝し、乗輿での入門を許された。この時成実は奥羽の軍議を談じあが、将軍家光はその勇略を嘆称して時服二十、外袍十を下賜したという。成実は正保三年(1646)六月、七十九歳で没した。政宗の覇業を援けて戦陣に明け暮れた一生であった。封は幕末で子孫が受け継いだ。  成実は武一辺倒だけの人ではなく、戦国期の政宗の活躍を今に伝える「成実記」の著者としても知られている。

■略系図