長江氏
三つ柏
(桓武平氏良文流鎌倉氏族)
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承久の乱後、相模国から美濃国不破郡今須村に移住した。その祖は源義家に従い、後三年の役に勇名をあげた鎌倉権五郎景政と伝える。景政の孫義景は相模国三浦郡長江村に住して、長江太郎を称したことに始まる。義景は、三浦氏とともに源頼朝の挙兵に参加し、鎌倉幕府創建の功臣となった。また、藤原泰衡討伐にも従軍し、その戦功により戦後、奥州桃生郡南方の深谷保郷も受領した。
系図によれば、長江頼景は不破郡居益の松尾山に城を築き、美濃守護土岐光行の幕下になったという。とはいえ、頼景より景助、重景と代々同地に住したというが、その間の動向は史料がなく、その実態は詳らかではない。ただ、系図には、重景は正平十五年曹洞宗の大徳で、下野国那須野の殺生石を退治したという大徹宗令を開山として、父母菩提のために妙応寺を建立した。
重景の子備中守高景は、美濃守護土岐氏の守護代富島氏の養子となる。富島氏は斎藤氏と並んでともに権勢を有し、高景は富島氏とは外戚関係にあったことから家を継いだ。
美濃には鎌倉幕府のころより、目代として斎藤氏が勢力を培っていた。土岐氏が美濃守護となり、その下風となりついには土岐氏の家宰となった。ところが、土岐氏の守護代である富島氏は、家宰である斎藤氏と権勢を争いその関係は険悪なものであった。そして、高景が富島氏の養子となって守護代に就くと、ついに斎藤・富島両氏の関係は破裂し、文安元年六月、高景は京都の土岐屋形において斎藤氏に殺害された。
富島一族はただちに斎藤入道を討ち、美濃に帰り斎藤氏の本拠を突かんとして、近江勢の応援を得て美濃に入り垂井に達した。美濃の土岐・斎藤氏の兵もまた、これを迎え撃つために西進してき、不破郡垂井に於いて両軍は激突した。その結果、土岐・斎藤氏の兵は敗れ三十六人が戦死をした。このとき、今須の長江氏は高景の一族でもあり、富島氏の主力として奮戦した。
以後、二十余年両勢力は西濃の地で争い、衝突を繰り返した。しかし、応仁二年十月、土岐方の名将斎藤妙椿の今須攻撃によって、ついに富島・長江両氏は敗れて、高景を始め景秀・元景・景次らは討死し、一族離散の憂き目となった。
その後、長江景隆は織田氏に仕え、その子の半之丞は蜂須賀家政に仕えて阿波に移り、子孫は徳島藩士として続いたという。
■参考略系図
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