最上氏
二つ引両
(清和源氏足利氏流)

 最上氏の祖兼頼は大崎家兼の次男で、延文元年(1356)、出羽国に入部し山形に居城した。大崎家兼すなわち斯波家兼は奥州深題だったが、そのころ最上地方の南朝方の勢力は強く、それを抑える必要からわが子兼頼を出羽按察使として山形に入部させたものであった。
 兼頼は、山形の立石寺の根本中堂を再建したりして民心をつかむことに成功し、また、出羽国の南朝方の中心であった寒河江の大江氏を屈服させることに成功、兼頼入部の目的は果たされた。
 しかし、兼頼はそのまま山形に定着し、名もその土地の名をとって最上と改め、四囲に勢力を拡大していった。所領拡大の方法は、庶子を各地に分封することであったが、その積極策は二代直家、三代満直の代に盛んに行われている。直家の場合、長男満直に最上家を相続させて山形に、次男頼直を天童に置き天童氏の祖とし、三男氏直を黒川に、四男義直を高櫛に、五男兼直を蟹沢に、六男兼義を成沢にそれぞれ置き、最上家庶流を立てさせたのであった。
 いわば、分割相続ということにもなるが、決められた土地を分割するというのではなく、所領を拡大していく方向での分封という点に特徴があった。こうした庶子家がのちに最上氏の有力家臣団として掌握されていくのである。
 同様に、満直の場合をみると、長男満家を山形に置き、最上家の当主とし、次男満基を中野に、三男満頼を大窪に、四男満国を楯岡に配置している。こうした政策により、最上川以東の村山地方一帯は最上一族が蟠拠する状態となったのである。
 このように最上一族が勢力を伸ばしていくと、近隣諸大名との衝突が始まるようになり、最大のものは伊達氏の山形盆地侵入であった。両者の戦いは繰り返され、次第に伊達氏の圧迫を受けるようになった。
 文明十一年(1479)伊達成宗は最上川に沿って村山郡に侵入し、寒河江城を攻撃したが大江氏一族の奮戦によって撃退された。次いで永正十一年(1514)、伊達稙宗は楢下口・小滝口から北進して上山城と長谷堂城を襲撃した。このとき、最上義定は寒河江大江氏一族の応援を得て応戦したが、左沢城主大江政周は戦死し、そのほか楯岡・長瀞・山辺・古川以下一千余名も討死して大敗した。
 翌年、稙宗は最上義定と和して、稙宗の妹を義定に嫁がせることとし、妹は翌十三年に輿入れした。しかし、義定は子のないまま永正十七年に死去した。こうして、山形城は伊達氏の監督下に置かれた。しかし、このような情勢から村山地方の反伊達派の土豪たちが反抗して、各地に挙兵するに至った。まず上山城主最上義房が叛し、これに応じて天童・高櫛・寒河江の諸氏も蜂起した。伊達稙宗は兵を率いて上山城を攻め、山形城に入り、高櫛館と天童城を攻撃した。さらに村山郡に出陣して、長谷堂城・上山城を攻めてこれらを占領した。そして、大永二年(1522)中野義清の二男義守が最上宗家の後嗣に定められた。時に義守僅か二歳であった。
 その後、伊達家において稙宗とその長男晴宗との対立が激化、いわゆる「天文の欄」が起こった。天文十一年(1542)十月、最上義守は稙宗を援けて置賜に出兵し、晴宗方を攻めて上長井・下長井の全域を制圧した。最上氏の村山郡における勢力が充実したことが知られる。元亀二年(1571)義守は得度して禅門に入り、栄林と号した。義守ははじめ二男の義時を後嗣にしようとしたことから義光と不和となったが、相続問題は長男義光が継いで落着した。

戦国大名-最上義光

 義光は従来の単なる友好関係、あるいは独立の領主権を許した旗下体制を破棄して、強固な主従関係に結ばれた領国の形成に乗り出した。つまり、これが戦国時代の大勢でもあった。しかし、義光の統制強化策は、一族や諸将らが義光に反抗する因ともなった。先の継嗣問題で反義光派であった天童城主頼貞をはじめ谷地・白岩・左沢等の城主たち、ことに義守の娘義姫を娶っていた米沢の伊達輝宗は、義光の強敵であった。
 義光は天正三年(1575)継嗣問題で対抗した弟の義時を討伐し、次いで、同五年に下筋八楯の盟主天童頼貞を攻めた。このときは天童氏を攻め滅ぼすには至らず、和を講じている。その後、義光は八楯の同盟を切り崩し天童氏の孤立化をはかった。同九年、真室城の鮭延秀綱を攻め、これを降した。この頃、庄内の武藤氏も新庄盆地に出兵してきたことから、武藤氏と戦ったが、これが武藤氏との抗争の始まりとなった。
●最上義光の像
 天正十二年(1584)、谷地城主の白鳥長久を山形城に招いて謀殺し、次いで寒河江城主大江堯元を攻め滅ぼし、先に和睦した天童氏の攻略にかかった。天童氏では頼貞の子頼久が義光に臣従することを肯んぜず、反抗していた。しかし、かつての八楯の盟将たちは義光に属しており、孤立無縁の天童城は十月落城し、頼久は国分氏を頼って落ちていった。そして、翌十三年には内陸部の平定を成し遂げたのである。
 このころから、伊達・上杉・小野寺・武藤・最上諸氏の間で複雑な争いが展開される。庄内尾浦城主の武藤義氏は、義光と通謀した前森蔵人に攻められて自刃し、義氏の弟義興が後を継いだ。義興は越後村上城主本庄繁長の二男義勝を迎えて養子とし、越後勢の支援を受けて東禅寺筑前(前森蔵人)等の最上勢と対抗した。天正十九年、義光は大軍を率いて庄内に出陣し、東禅寺筑前等を援けて武藤義興を攻めた。義興は敗れて自害したが、翌十六年義勝の実父本庄繁長は大軍を率いて庄内に侵攻し、最上軍は十五里ケ原の合戦で大敗、最上方の勢力は庄内から一掃された。
 その後、義光は葦名氏や佐竹氏らと謀って、成長著しい伊達政宗を包囲する戦略をとったが、それも天正十七年(1589)の摺上原の合戦における葦名氏の敗北によって水泡に帰し、結局翌十八年の小田原参陣ということになる。
 この時、出羽では最上・戸沢・秋田氏らがそのまま本領を安堵されており、陸奥の大崎義隆・葛西晴信・白河義地からはいずれも所領を没収されているのと比べると明暗が対照的である。
 以後、豊臣氏に属して、文禄元年(1592)、朝鮮出兵に際しては手兵を率いて肥前名護屋の陣に赴いた。翌年、豊臣秀次が高野山に追放されて切腹を命じられた。そして秀次の妻妾ら三十余人が処刑された。義光の娘駒子(お今の局)もその一人であった。義光は助命を嘆願したが許されなかったばかりか、義光も秀次の謀叛に与したとの嫌疑を受けた。このときは、徳川家康のとりなしで許され、以後、義光の気持ちは豊臣方から徳川方に傾くことになる。
 慶長五年(1600)五月、徳川家康は上洛の命に従わない上杉景勝を討伐する決意を固め、義光を山形に帰らせ、上杉氏に備えさせた。七月、小山まで進出した家康は石田三成挙兵の報を受け軍を返して西上した。このとき、上杉家の執政直江兼続は最上氏を征討しようと自ら大軍を率いて村山郡に進出した。
 直江軍は畑谷城を攻め落とし、次いで長谷堂城を包囲した。長谷堂城の主将志村伊豆守はよく直江軍を悩ました。ところが、上杉軍の酒田城将志田義秀の庄内軍は最上川を遡って村山郡に進出、尾浦城主下吉忠も六十里越街道から進撃して山形城に迫ろうとした。山形城はたちまち危機に瀕したのである。義光は長男義康を伊達政宗のもとに遣わして援兵を請わせ、政宗はこれに応えて留守政景を将として千二百の援兵を山形に派遣した。この援軍は実戦には参加しなかったが、最上軍の士気を鼓舞するには充分であった。
●長谷堂合戦で奮戦する義光。
 その後、関ヶ原の合戦で西軍が敗れたことを知った直江兼続は陣を徹して引き挙げていった。義光は撤収する上杉軍を追撃して庄内に進撃、さらに酒田城まで迫ったが、積雪のために中止した。翌年、再び出兵して酒田城を陥れ、さらに横手城まで攻め降した。慶長六年八月、義光は戦功を賞されて、五十七万石の大大名になった。

●最上氏が居城とした山形城祉、いまは近世山形城が復興されている。


●最上氏のその後

 慶長八年、義光は長男義康に高野山に上ることを命じ、途中庄内において義康を討ちとらせた。これは、義光が家督を譲るのが遅いことに義康が不満を抱き、日頃父子の間が悪化していたためだという。そして、義光は、家康に仕えていた二男の家親を後嗣と定めたのである。慶長十六年、義光は左近衛権少将に任じられた。翌年、病をおして叙任の礼と今生の暇乞いのため家康に会うため、駿府に赴いた。また江戸城に参上して、将軍秀忠に謁して山形に返った。そして、翌年正月八日、六十九歳をもって卒去したのである。
 こうして、最上氏は義光によって五十七万石の大大名となった。しかし、元和八年(1622)義光の孫・義俊の代に内紛のため所領を没収され、近江に移されて一万石。その後、さらに五千石に削られ高家に列なり家名だけは残った。

■参考略系図