溝江氏
木 瓜*
(朝倉氏庶流か?)
*朝倉氏の代表紋として掲載。

 出自は不明であるが、朝倉孝景(英林)以前の朝倉氏庶流が溝江郷に土着して溝江氏を称したものと思われる。とはいえ、これが事実ならば、溝江氏が名字の地をする越前河口庄溝江郷に入部した時期は新しく、おそらく応仁以降であろうと考えられる。
 というのは、溝江郷の請負代官職は文正元年(1466)まで、ずっと守護代甲斐氏が所持していて、その代官も織田氏が任じられていたからである。すなわち、この段階で朝倉氏庶流が溝江郷に入部して郷名を名乗ることは考えられないし、それ以前から土着していたとも思えないのである。おそらく、甲斐氏が朝倉氏との抗争で没落したあと、朝倉氏が一族を代官として溝江郷に配したのであろう。
 戦国時代における溝江氏の系譜も明かではなく、『大乗院寺社雑事記』に溝江郷代官として景遠、景栄、彦次郎、虎市などの名が散見される。永正三年(1506)加賀一向一揆を九頭竜川に迎撃した朝倉勢のなかに溝江氏の名がみえ、弘治元年(1555)には、加賀一向一揆討伐軍の朝倉教景(宗滴)に従軍した溝江河内守親子(景逸-長逸か)の奮戦振りが『朝倉始末記』に記されている。
 溝江氏の朝倉家中における地位は低くはなく、永禄十一年(1569)大炊助・三郎右衛門尉の二人は年寄衆に数えられていた。
 長逸は河内守景逸の子で、大炊助を称している。永禄十一年(1568)将軍足利義昭の朝倉館御成のとき「朝倉同名衆御礼披申次第」に溝江三郎右衛門尉とともに末席に列していた。溝江氏は、西隣する外様衆堀江氏に対する目付的存在でもあったようで、永禄十年三月、堀江景忠父子の謀叛の風聞が伝わると、溝江館を本陣として堀江氏の本庄館の攻撃が始められ、この結果、堀江氏は加賀に亡命した。
 一方、溝江氏は廻国と称して岐阜の織田信長に好を通じ、天正元年(1573)朝倉義景が江北に出陣したときも、下口警固を名目に越前を動かず、朝倉氏の滅亡に際して、溝江長逸は織田信長に降伏して、本領を安堵されたうえ朝倉土佐守の跡を加増され、五〜六千石の大領主となった。
 しかし、翌二年越前一向一揆の蜂起によって河北の一揆に襲われた。一時は和議がなるかと見えたが、ついに溝江館は一揆軍の前に灰儘と帰した。このとき、長逸は父の景逸ととみ自害し、他に舎弟の妙隆寺弁栄・明円坊印海・宗性坊・東前寺英勝、さらに小泉藤左衛門、富樫介らもともに滅亡した。
 しかし、長逸の一子長澄だけは溝江館から脱出し、のちに豊臣秀吉の馬廻役となり、慶長三年には越前国内で一万石余の所領を得て溝江家を再興した。その子長晴は関ヶ原の合戦で西軍に属したことから、戦後、浪人したが、近江彦根藩井伊氏に仕えて、子孫は現在に至っているという。

■参考略系図