街道をゆくの阿波紀行に記された
三好長慶の風韻


 司馬遼太郎氏の著作である『街道をゆく』の「阿波紀行」に、三好氏と三好長慶を記述されたところがある。僭越ながら、以下に引用させていただいた。まことに、三好長慶の風韻が感じられる名文である。

 さらに西にむかった。
 吉野町と市場町をすぎると、讃岐山地からながれ落ちる川が多くなる。日開谷川、大久保谷川、伊沢谷川といったような川が、道路と交叉している。
 やがて曾江谷川というやや大きい川にかかった橋をわたるころ、すでに美馬郡に入ったことを知った。
 このあたりこそ、室町時代の京を実質上支配した三好氏の古い根拠地なのである。町名でいえば、この吉野川北岸ぞいに、西にむかって、脇町、美馬町、三野町、三好町と数珠珠のようにならんでいる。ふるくは美馬郷・三好郷であり、この一円こそ三好氏をささえた田園であった。
 と思いつつ、まわりを見わたすと、吉野川流域もこのあたりにくると平野がせまくなっている。強大な三好氏をささえるにしては、とくに米の穫れ高が多かったとも思えないのだが、山々の細流ごとにある山田の数が多かったのかもしれない。それに、上流へゆくにつれて、山岳型の気象が濃くなる。”阿波の山岳武士”などといわれて強かったそうだが、三好氏の勢いは、あるいはかれらにささえられていたのかとも思える。
 「山の阿波というのは、ずいぶん人の印象がちがう」
 と、故富士正晴氏もいっていた。かれのご両親は、これよりずっと上流の、池田町のさらに奥のうまれである。
 ところで、日本人の姓に、三好氏は多いほうである。それらの姓のもとは、この地に栄えた三好氏とたとえ直接でなくても間接的にかかわりがあるといっていい。
 三好氏五代は、阿波と京都を往復しつつ勢力を大きくした。その末期の三好長慶(1523〜64)のころ、京をおさえているだけでなく、その勢力圏は八ケ国(山城、摂津、河内、大和、和泉、淡路、阿波、讃岐)におよんでいたから、その滅亡後も、その姓が各地に残ったのに違いない。

 歴世の三好氏のなかでも、スターは、全盛のころ”日本の副王』とよばれた長慶入道である。
 『武将感状記』は備州の熊沢正興の著で、江戸中期の正徳六年(1716)に刊行された。その「巻之五」に長慶の人柄をあらわす挿話がある。
 長慶はたいてい京にいた。
 ひとに愛想がよく、不必要に武威を誇示せず、いつも口ひげのあたりに春風が遊んでいるような男だったように思える。
 そのくせ、合戦が上手だった。それ以上に連歌に巧みで、京の貴顕や知識人をあつめては、みずから興行した。戦場にゆくときは大そうぶらず、連歌仲間に、ちょっと他行します、などといって出かけるような男だったような気がする。
 おそらくこの挿話の場合も、
 「河内の飯盛の城まで」
 などと、連歌仲間に言ったであろう。長慶はこのころ四十歳前後だった。
 「飯盛なら京に近い。われわれも、遊びに行ってよろしいか」
 などと連歌仲間も、心安だてにいったかもしれない。
 でなければ、北河内の飯盛山という丘にある山城の飯盛城で、連歌が興行されるはずもないのである。  飯盛城はそれまで山の砦程度であったものを、長慶は永録三年(1560)大改修を加えた。永録三年といえば、若いころの織田信長が桶狭間で今川義元を敗死させた年である。
 長慶は飯盛山の頂上付近に本丸を設け、高櫓をそびえさせた。また峰つづきに千畳敷などの大曲輪を造営してニノ丸とした。そのそばに南ノ丸を置き、たがいに連繋させた。さらには小さな峰々を削って城砦群とした。三本松丸、御体塚丸、北ノ丸、東ノ丸、西ノ丸などがそうで、まことに堂々たつものであった。
 『三好別記』によると、あるときの連歌の会に,この城に京から諸人があつまっていた。『武将感状記』の挿話は、この「三好別記」からとったものにちがいない。
 ときに、いまの大阪府である摂津・河内・和泉のあちこちで合戦がおこなわれていた。
 この合戦に名分などはなかった。ずっと以前の応仁の乱からつづいてきている腐れ縁のような合戦で、足利幕府の”三管領家”といわれた細川氏と畠山氏の争いが細分化したものといってよく、両家系の骨肉が数派にわかれ、その間、下剋上であがってきた家老級が入りみだれて叩きあっていた。
 つまりは、歴史を変えようというような大志はなかった。同時代に毛利元就や、上杉謙信、武田信玄、あるいは織田信長といった地方で大統一を遂げたひとびとがいるのだが、かれらとはすこしちがう。そういうひとびとは、みな京に旗を樹てようとしていたが、当の京や近畿では、寄合酒の乱闘のように、名門順でいえば、細川・畠山、ちいで三好、さらには下剋上による出頭人の松永といったような勢力があちこちで組みうちしていた。
 上の飯盛城での連歌興行の時期、長慶は弟の三好実休(三好義賢)に兵をあたえて畠山高政と戦わせていた。実休は兄の長慶によって阿波一国をあずかっていたから、かれの直属の兵は阿波武士が多かったにちがいない。
 以上が、挿話の背景である。

 挿話の推定の年と月は、永録五年(1562)三月五日である。その日が三好実休の戦死の日だったからはっきりしている。
 さて、連歌の席につらなるひとびとのことを、連衆という。
 このときの連衆は、長慶が興行しているだけに、いい人があつまっている。
 当代第一の連歌師といわれた谷宗養もいる。宗養は宗牧の子で、よく父の遺風を継ぎ、この時代の公卿や大名たちのあいだで評判が高かった。
 堺の大茶人武野紹鴎もいる。
 それに、長慶の弟のひとりで、三好(安宅)冬康も座につらなっている。冬康は長慶から淡路一国をもらっており、摂津にも領地があった。歌才の上ではあるいは長慶より上だったかもしれず、ともかくも三好兄弟というのは、なにやら教養のありげな連中がそろっていた。
 この連歌のときに前線にいる弟の実休入道もまた、紹鴎が敬愛せいていた茶人だった。
 「実休どののお姿が見えませんな」
 紹鴎がいったであろう。
 「なにやら忙しいと申しておりましてな、和泉のあたりに行っております。手が抜ければ、こちらに駆けつけるかもしれません」
 三好長慶は、空とぼけていったろうか。
 当の実休は、このとき和泉の岸和田城にいた。かれの敵は、三好氏によって河内を追われた畠山高政であった。高政はいったん紀州へのがれたが、やがて根来衆を味方にひきこんで、大挙和泉に押しよせていたのである。長慶は、風雅の席でそういう野暮なことはいわない。
 連歌というのは、泊まりこんで、夜やると、想が深くなっていいとされたらしい。この当時
 ──連歌と盗人は夜がよい。
 といわれたが、この飯盛城での連歌は、昼だった。
 席に勢いがつき、たれかが、

 薄にまじる蘆の一むら

 と句を付けた。この句は『武将感状記』のもので「三好別記」では「蘆間にまじるすすき一村」とある。  さて、これにあわせた句をつけねばならない。しかしみなつけあぐねて苦吟しているところへ、長慶に注進の者がやってきた。
 注進状には、実休戦死のよしが書かれている。長慶は、一見して懐ろに入れ、座も立たず、顔色も変えずに、

 古沼の浅き方より野となりて

 とつけた。最初の句もいいが、この長慶の句もいい。満座大いに感じ入ったという。
 「三好別記」によると、連歌が果ててから、長慶は実休の戦死のことを一座のひとびとに告げたというが『武将感状記』では、上の下の句を付けおわってから、

 実休、敵の為にうたれぬ。今日の連歌此の句にて止むべし。

 と、長慶はいって、即時、兵を催して出て行ったという。長慶はぶじ弔合戦を遂げて畠山軍を追いはらった。
──中略──
 

 花車ということばは、ふつう華奢と表記して、当時の口語だった。連歌を興行することも華奢になるだろうが、戦場から遠くもない飯盛城で連歌を興じているうちに、実休が敗戦して死んだ。田舎者ならこんな怠りはやらない。
 三好氏の故地を歩きながら、上のように三好氏五代のことを考えた。
 三好氏は武勇もあり、風雅もあった。ただ一つ天下をどうしようという野暮な経綸や大志がなかったのである。
 五代も京にいながら天下人になれず、結局は坪内某のあざける信長のような田舎者がやって来なければ歴史は旋回しなかったというのが、三好氏を考える上で、もっともおもしろい。

【『街道をゆく 32 阿波紀行 100〜111頁(朝日文庫・司馬遼太郎氏著)』から引用】

・三好氏