南 氏
花輪違い
(高階氏流高氏一族)
*高氏の代表紋として掲載。 |
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南北朝期以降、室町幕府の重臣として登用される南氏は高南氏などとも呼ばれ、足利氏の根本被官である高氏の一族で、栃木県足利市を本貫の地とする。高重氏の子頼基がその祖となる。
頼基は下野国足利荘内丸木郷を領し、「足利所領奉行注文」の中にも、足利荘をはじめ十一ケ所の御領奉行の筆頭に南右衛門入道としてその名をみることができる。
中先代の乱により関東に下向した足利尊氏は、北条時行を退け、建武二年(1335)の後半、後醍醐天皇に叛旗を翻す。翌年、京都に攻め上った尊氏は新田勢に敗れ、九州へ西走した際に、援軍を求めるために、南宗継らを使者として、少弐貞経のもとに遣わした。やがて京都に入京した尊氏方は、大軍をもって比叡山に逃れた後醍醐天皇を攻撃した。その一方の西坂本側の軍勢に、大将高師重をはじめ高氏一族、南宗継も名を連ねている。
こうした戦乱を経て、室町幕府の基礎を固めていった足利尊氏は、代々足利家の執事を務めていた高氏一族を幕府要職に登用した。そのうち、南家では、宗継が侍所頭人に補任された。さらに宗継は、康永元年三河国守護、翌二年頃からは備中国守護に在任している。
貞和三年、楠正行の率いる河内・和泉国の南朝軍が、細川顕氏・山名時氏らの幕府軍を破った。これに対して、幕府側からは高師泰が大軍を率いて出陣した。この討伐軍には、高師兼・師冬などの高一族とともに、南宗継らも参陣している。翌年の四條畷の戦いには、楠正行めがけて一番手に攻め入った南次郎左衛門尉の討死をはじめ、高・南一族の奮戦が『太平記』に記されている。
尊氏と弟直義が分裂して争った観応の擾乱に、形勢不利となった尊氏は高氏兄弟の出家を条件に講和を申し入れ、直義側もこれを受け入れた。しかし、高一族は、待ち伏せていた上杉顕能に討ちとられてしまった。
この尊氏と直義の講和は半年後には破綻し、直義は北陸を経て鎌倉に逃亡した。尊氏は直義追討の軍を従えて出京し、東海道の国々で直義軍を破り、観応三年年二月には直義を亡ぼした。この時期、宗継は尊氏袖判下文を各国守護に対して、施行する立場にあったようである。
宗継の死後の南氏は、代々足利氏傍流に仕えていたようで、関東公方の近習となっていた重祐らの名が確認できるだけで戦国大名とはなりえなかったようだ。
■参考略系図
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