陸奥の戦国大名・南部氏の初代光行は、建久三年(1192)の春、三戸に平ヶ崎城を築いて地頭代を据え、自身は鎌倉に帰り同地で没した。
初代光行には六子あり、長男彦太郎行朝は妾腹のため別家を興して一戸氏の祖となり、次男彦次郎実光が正統を継いだ。三男波木井六郎実長は後の根城(八戸)南部氏の祖となる。根城南部氏は南北朝に於て同家に先駆けて活躍を見せ、中世における南部氏の代名詞ともなった。そして、四男七戸太郎三郎朝清は七戸・久慈氏の祖になった。さらに、五男四戸孫四郎宗朝は金田一・櫛引・足沢氏の祖に、六男九戸五郎行連は九戸・小軽米・江刺氏の祖となった。こうして、南部氏の一族が陸奥に広がっていったのである。
治政の代になって、南部宗家時政の子信実が婿養子として家督を継いでいる。戦国期は、同じく南部一族の九戸氏と結び、勢力を維持した。九戸政実の三弟政親は久慈直治の女を娶って久慈氏を家督し、政則と名乗った。九戸の乱に際しては兄政実に従って、姉帯城に籠城し、一族滅亡したと伝えられる。が、籠城者一覧に政則の名は見えない。
戦国津軽の風雲児、大浦為信は久慈氏の出身(直治の叔父といわれる)で、大浦為則の家督を継いだといわれる。また大浦氏は、光信の代に久慈氏から分かれたとも伝えられている。為信はのちに津軽と改姓し、その家は近世大名として明治維新まで存続した。
■略系図
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