春日部氏
丸に二つ引両
(桓武平氏正度流/紀長谷雄流) |
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戦国時代の伊勢国は、南勢を北畠氏が領し、安濃郡長野を拠点とする長野氏、鈴鹿郡関・亀山に拠った関氏がそれぞれ勢力を振るい、合せて「伊勢の三家」と称された。これに加えて、三重郡千種城主の千種氏、河芸郡神戸城主の神戸氏、朝明郡萱生城主である春日部氏の三家を合せて「六人衆」と呼ばれて、それぞれ勢力は強大であった。
春日部氏は系図によれば、桓武平氏のうち伊勢平氏の流れとあり、「平将門の乱」の平定に活躍した平貞盛の孫正度を祖としている。そして、萱生、伊坂、星川三家は同家といい、一説に萱生の春日部氏は紀姓とも伝えられている。
元弘元年(1331)、春日部大膳大夫詮義が北畠氏の与力として後醍醐天皇に奉仕して朝明郡萱生を賜り、兄弟と共に朝明郡に入ったことが始まりとされる。春日部氏の動向は『進士春日部系図』に頼るしかない。
他方、『萱生氏系図』によれば、紀長谷雄の後裔大井實直の子實高が春日部を称したことが記されている。そして、春日部宗綱の子宗實は愛洲三郎左衛門尉(弾正忠・伊勢守とも)と称し、延元四年(1339)後醍醐天皇から綸旨を賜い、朝明郡萱生地頭に補せられたという。宗實の譜をみると、
延元四年(1339) |
3月4日、勢州雲出川合戦に活躍、官軍利を得て朝明を取る。
4月5日、弾正忠に任じ朝明郡地頭職となる。 |
興国三年(1342) |
8月28日、田丸合戦に敗れる。 |
正平六年(1351) |
2月3日、播磨光明寺に参戦。 |
正平二十年(1365) |
2月、勢州にて仁木義長を追討。 |
建徳三年(1372) |
4月、萱生御厨地頭職は古和氏に移る |
元中六年(1389) |
北畠顕泰に属して雲出川に戦う。 |
と、かなりの老齢になっても合戦に出陣している。宗實の子宗方は春日部隼人正を称して、萱生城主として多気国司に属したことが『三国地志』にみえている。
戦国末期の萱生城主伊予守俊家は江州佐々木義賢の幕下に属し、元亀三年(1572)織田信長軍の攻撃に抵抗したことが知られる。天正年中(1572〜91)に至って羽柴秀吉に萱生城を攻め落され、春日部氏らは朝明川らに打ち出したものの敗れて俊家は自刃して果てたという。
●春日部
■参考略系図
・多聞櫓さんのページを参考に作成しました。
●進士春日部系図(伊勢平氏7)他
冨田三郎
平正度──季衡──(盛遠)──盛国──盛久──基度──家資─┬泰資──家泰──┐
│称春日部 │
└資清──資信 │
┌──────────────────────────────────────┘
│ 太郎左衛門尉
└家詮─┬家武──武嗣
│大膳大夫 大膳大夫 大膳大夫大膳大夫 大膳大夫 太郎左衛門尉
├詮義──┬家宗──┬家信──┬家長──┬家政──┬家治──┬家高──┐
│賜萱生 └采女正 ├家光 │ └家保 ├家則 ├家平 │
│若狭守 └家吉 │宮内少輔 └家富 └家長 │
└義資──義嗣 └家綱 │
┌──────────────────────────────────┘
│
└─┬家暉
└家重─┬家国
│大膳大夫 左近将監
├家澄──┬詮家 左膳
└家資 ├家雄──信家(仕尾州侯)
└家広 *家紋二引両
●萱生氏系図(伊勢平氏7)他宿野小澤氏系図
紀長谷雄──淑信──在昌──伊輔──為基──頼任─┬為任
├久任大炊頭
└頼季──守隆──┐
┌─────────────────────────────────┘
└┬頼郷
├中村遠定
└大井實直─┬伊坂實重
├實春───┬實忠──實長
├品川清実 └實成
├春日部實高─實平─┬實季──行景
├塩田實元 └實景──廣實──泰実──時方──宗綱──┐
└堤實能 │
┌─────────────────────────────────────┘
│伊勢守 隼人正 伊予守 治部少輔
└愛洲宗實──春日部宗方──實頼──實祐──實行──行實──俊家──實勝─┬千松
萱生城主 (光實)(季實) (俊泰) ├善教
└小澤實義
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