加々爪氏
竹の丸に舞雀
(藤原姓上杉氏後裔)

 家譜によれば、上杉満定の子政定は今川範政の養子となり、加々爪を称し、以後駿河国に住したという。その後嫡流は遠江国山名庄新池郷を領し、今川氏親・氏輝・義元に仕えた。
 桶狭間の戦いでの今川義元戦死後、氏真に仕えていたが、永禄十一年(1568)、家康の遠江出陣のとき、氏真から離れて家康に従属した。政豊のときであったという。このとき、本領安堵の書状を与えられ、同十二年、本領の新池郷で三百七十貫、乗木郷三十五貫文余を宛行われた。家康の関東入国後は、相模高座郡のうちで馬飼料八十石余を扶持された。その後、勤めを辞し、相模国高座郡大庭入村に閑居した。
 嫡系の政尚は文禄元年(1592)、武蔵国のうちで三千石、慶長元年(1596)家康上洛のとき従い、大地震により伏見の宿で圧死した。嫡子忠澄は将軍秀忠の面前で元服し、その諱の一字を与えられた。大坂の陣では使番となって城中に入り、秀頼などの居場所を探索した。のち江戸町奉行・大目付となり、すべて九千五百石を領した。同十七年、長崎に出張し、来航禁止のマカオの船が着航したので、船を焼き、キリシタン数十人を殺した。
 加々爪氏で一万石以上の大名になったのは、次代の直澄である。直澄は将軍家光の小姓となり、御小姓番頭に昇進して、二千石を与えられた。のち家督を相続し、自身の領地の一部を併せ一万石を領し、武蔵国高坂村で陣屋を構えた。また、寺社奉行に就任して三千石を加えられたが、裁判中の勤務不行届により改易処分を受けた。家名は庶流二家が旗本として伝えた。
 加々爪氏の家紋は、上杉氏の出らしく「竹に雀」と「五三の桐」であった。別に替紋として「九曜」を用いたと伝える。

■参考略系図