石母田氏は甲斐武田氏の流れをくむと伝え、武田を氏とし、伊達家初代の朝宗が伊達郡に移ったとき、それに従い同郡石母田城に居住し、石母田を称したという。以来、代々伊達氏に仕え、石母田光頼のとき、奥州探題となった晴宗に仕え、守護代となり安房守に叙任された。
光頼の子景頼も伊達氏に仕えて天年間に軍功をあげている。天正十八年の奥州仕置の結果、翌十九年政宗が岩出山に移ると、景頼も伊具郡高倉村に移った。その後、文禄年間に加美郡谷地森村に、慶長元年に登米郡米谷村に所替となり二千五百石を禄した。景頼には男子がなかったため、娘に越前の人浦山清三郎景綱を迎えて家督を譲った。
景綱は宗頼と称し、元和元年に奉行職となり、大坂夏の陣に出陣して道明寺口の戦いに軍功をあげた。翌年、胆沢郡水沢に移され、寛永年間に五千四百石の禄を給され、栗原郡三迫に転封された。以後、子孫が相継ぎ、一家に列した。
光頼の弟氏頼は伊達輝宗に召し出されて別家を立て、六百五十余石を給された。子の安頼は大坂の陣に従軍し、元和年間、本吉郡・気仙郡の代官となり、のち評定役・歩子姓頭を務め、七百九十石余の禄となった。
光頼家、氏頼家とも分家を出したことで、仙台伊達藩士のなかに石母田氏が多く見られる。
■参考略系図
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