財津氏
洲 浜 (大蔵氏流日田氏流)
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財津氏は大蔵氏流日田氏の一族という。日田氏は中世における豊後国日田郡の武士階層を代表する存在で、日田郡司職に就いていた。出自は大蔵氏に求めているが、実際のところは明確ではない。一説に、天武天皇の曾孫で豊後介の任にあった中井王の末裔とするもの、あるいは宇佐氏の後裔とする説などが伝えられている。日田氏が伝説の域を脱して確実に歴史上に登場するのは大蔵永季のときである。以後、日田氏は永享四年(1432)に滅亡した二十一代七郎丸(永包)まで日田の支配者であり続けた。
南北朝時代、今川了俊に属して活躍した詮永が水島の戦いに戦死、ついで、嫡男の永雅も出征先で病を得て筑前馬渡で客死した。結果、詮永の弟の永息が日田氏の家督を継いだが、永息も戦死してしまった。永息の嫡男永清はわずか二歳の幼児であったことから、傍系の永秀(永純)が家督を継承した。ところが、永秀の子七郎丸の代に家督を巡る内訌が生じ、大蔵姓日田氏は断絶という結果となったのである。その後、日田氏は大友氏から入った永世(親満)が郡司職を継ぎ、日田氏は大友系として続くことになった。
一方、永息の子永清は長じると日田郡北部の夜開郷財津に城を築き、財津氏の初代になった。以後、財津氏は日田大蔵一族の中核となって、戦国時代を生き抜くことになる。そして、永清が日田氏の嫡流であったという意識から、日田氏の本流は財津氏であるとの思いが強かったという。
財津氏の登場
さて、日田氏は大友流になったとはいえ、日田郡の郡司として自立した勢力を保ち続けた。そして、財津氏・堤氏・坂本氏らの大蔵日田一族が被官として支えていた。日田郡は筑後との境に位置していることから、大友氏としては日田の支配を我が手に掌握するため、日田氏への統制を次第に強化していった。そのような情勢下の大永三年(1523)、手城岳の戦いが起った。この戦いは日田氏の重臣である財津永満に対する讒言を信じた大友義鑑が、同じ日田氏の重臣である堤弾正と高瀬越後守に永満の誅殺を命じたことで起ったものであった。
戦いは、堤・高瀬ら寄せ手の作戦の齟齬もあって、永満が堤弾正を討ち取る勝利をえた。しかし、大友義鑑は高瀬越後守に命じてふたたび財津城を攻撃、ついに敗れた永満は周防山口に落去するに至った。永満が山口に蟄居している間に、大友系日田親将は大友氏の謀計によって、享禄三年(1530)に没落、日田氏は滅亡した。それもあってか天文三年(1534)、永満は義鑑の赦しを受けて日田財津城主に復活することができた。
日田氏げ滅亡したのち、日田郡を直轄領とした大友氏は、日田氏旧臣を奉行に命じて郡政を統治させた。すなわち、
坂本伯耆守鑑次(入道随応)
財津長門守鑑永(入道芳澤)
羽野遠江守鑑房 |
石松肥前守鑑正
堤越前守鑑智
高瀬山城守鑑俊
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の六氏で、のちに佐藤出雲守永信。瀬戸口大和守永益の二氏を目代に命じ、八氏は総称して「日田八奉行」と呼ばれた。 いずれも大蔵姓日田氏の分流で、一族の関係であった。
天文十九年(1550)、大友氏において「大友二階崩れ」の変が起り、大友義鑑が家臣によって殺害されるという事態が生じた。結果、嫡男の大友義鎮(のちの宗麟)が大友氏の家督となった。以後、大友氏は着々と勢力を拡大、つには北九州をほぼ支配下におくまでになった。
戦乱のなかを生きる
永禄四年(1561)、中国地方を征圧した毛利氏が、九州への侵攻を開始した。門司城をめぐる激戦が展開され、日田郡の諸士も吉岡・臼杵氏らに従って出陣したが、敗れて日田に退去している。このころから、大友氏の全盛にも翳りが見えるようになってきた。
永禄七年(1564)、大友一族で立花城主の立花鑑載が毛利方に通じて叛旗をひるがえした。宗麟はただちに戸次道雪を大将とする討伐軍を発し、ただちに鑑載の謀叛を征圧した。しかし、十一年、鑑載はふたたび叛旗をひるがえし、宗麟もまた戸次道雪を大将とする討伐軍を送った。その第三陣には財津永忠・坂本鑑次ら日田郡の諸将が従軍した。大友軍の猛攻撃の前に鑑載はついに自刃して叛乱はおさまり、永忠は宗麟から感状をうける活躍を示した。
以後、毛利氏との抗争、肥前の龍造寺隆信の台頭などにより、大友軍は休む間もなく転戦が続いた。そして、九州の情勢は大友氏、龍造寺、そして南九州より北上の気配を見せる島津氏が三つ巴の情勢となった。日田郡の北方に位置する筑前国夜須郡甘木の秋月氏は島津氏に通じて、次第に勢力を拡大、日田武士団との間で小競合いが生じるようになった。
天正二年(1574)、秋月方の門注所鑑則が日田郡に乱入、高井岳城に押し寄せてきた。高井岳城の危機を察知した財津永忠はただちに救援に駆け付け、鑑則らを筑後に追い払った。ついで、天正四年、彦山衆徒が秋月氏と結んで大友氏への対抗姿勢をみせるようになった。宗麟は清田・上野らを大将として日田衆に出陣を命じると、日田奉行の財津鎮則(入道龍閑)、同永尚らが先鋒となって彦山に押し寄せた。激戦となったが、戦いは大友方の勝利におわり、財津一族の活躍に対して宗麟は感状を送って讃えている。また、この戦いにおいて永尚は僧侶・信徒を殺すには忍びないとして、落ちる者はことごとく助けるという仁慈を行ったことが知られる。
その後も、財津一族の戦いは続き、天正五年の甲石口の戦いでは財津永三・永高らが活躍、筑後方の大石城を陥落させている。天正七年、財津鑑永は秋月方に通じた竹下中務少輔兄弟の討伐に出陣したが、竹下中務少輔は鑑永の娘婿という悲劇でもあった。
大友氏の衰退
大友氏は宗麟の代において最大の版図を築き上げたが、天正六年、島津氏と決戦を演じた耳川の戦いに敗れてのち、さしもの大友氏の勢力も斜陽の色を深めていった。一族から謀叛を起すものがあらわれ、天正八年には重臣野一人である田北紹鉄が謀叛を計画、熊牟礼城に立て籠った。敗れた田北一族は日田郡を抜けて筑後に奔ったが、財津・坂本氏らはこれを迎え撃ち、田北勢をことごとく討ち取る功をあげた。
大友氏を取巻く情勢は、次第に予断を許さぬものとなり、財津氏ら日田武士団も緊張を強いられた。天正十年、大友義統は坂本道烈と財津龍閑に筑前小石原攻めを命じ、日田勢は小石原において秋月勢と戦いを展開した。ついで、日田勢は甲石口の戦いに出陣、財津龍閑・永高父子、坂本式部らの名が見えている。
やがて、天正十二年、肥前の熊の異名をとった龍造寺隆信が島津氏との決戦に敗れて戦死、島津氏の勢力がにわかに拡大した。この情勢をみた筑後の諸将は大友氏から転じて島津氏になびいていった。義統は日田・玖珠郡の諸将を筑後に出陣させ、島津方の黒木氏を攻撃した。先鋒は財津龍閑・永高、永尚・永継兄弟ら財津一族、堤・石松・瀬戸口ら日田勢であった。激戦のなかで財津永高が戦死、財津龍閑も戦傷を受け、のちに陣没した。戦いは大友方の勝利となったが、財津氏は大きな犠牲を払う結果となったのである。
財津氏らの奮戦があったとはいえ、島津氏に対する大友氏の劣勢はおおうべくもなく、天正十四年には、高橋紹運が守る岩屋城が玉砕した。ついで、宝満山城が陥落、戸次川の合戦において大友方は大敗北を喫した。まさに大友氏の命運も風前の灯火となったが、豊臣秀吉の九州征伐によって島津軍は兵をひきあげ、九州の戦国時代は終わりを告げたのであった。
乱世の終焉
大友氏は吉統が豊後を安堵され、財津氏ら日田武士団は吉統の支配下に入り、新しい時代を迎えたのであった。そして、秀吉の朝鮮出兵が起ると吉統も豊後の兵を率いて朝鮮に渡海、財津氏らもそれに従った。ところが、朝鮮における吉統の失態により、大友氏は豊後一国を没収され、改易の憂き目となった。かくして、財津氏ら日田諸将は流浪の身となり、それぞれ新たな道を模索することになった。
財津氏のその後の消息は『日田造領記』『熊本財津家略記』などによれば、財津永高は細川氏に仕え、細川氏の肥後移封に従って熊本に入ったとある。近世、肥後藩熊本氏の分限帳にも財津氏がみえ、「州浜」を用いたとある。財津氏は戦乱の荒波を乗り越え、家名を後世に伝えたのであった。
【参考資料:西国武士団関係史料集;1・8/豊後日田氏の興亡 ほか】
■参考略系図
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