魚住氏
三つ巴*
(村上源氏赤松氏流)
*赤松一族の代表紋
   
 村上源氏を称する播磨赤松氏の一族。すなわち、赤松季則の子頼範に男子が数人あり、その一人宇野新大夫為助の後裔頼季は小寺相模守を称し、小寺氏の祖となった。そして、頼季の子という大夫判官長範が播磨国明石郡魚住に住して魚住を称したことに始まる。
 『播磨鑑』によれば、「魚住城主は魚住太夫判官長範は赤松氏の幕下で 文和年中の神南合戦に際して赤松則祐の下知に従い、後藤氏等とともに武功を尽した。」とある。 また、『赤松盛衰記』『赤松秘士録』などにも、「嘉吉の乱において、城山城籠城宗徒の中に、二百丁魚住大夫次郎、戦死一族あり」とみえる。
 明徳の乱、応仁ノ乱には赤松氏に属して忠義を尽したようで、『太平記』に魚角大夫房(赤松配下)『応仁記』に赤松衆魚住などみえる。また、『上月記』には魚住彦九郎、魚住主計などの名が載せられ、古くから播磨国の名族であったことがうかがわれる。
 戦国時代になると、播磨守護であった赤松氏は衰退していく。そして、旧赤松氏領国は西播磨に御着城の小寺政職、英賀城の三木通秋、長水城の宇野政頼がおり、東播磨八郡には三木城手主別所氏がいて、小規模戦国大名の群雄割拠の状態に置かれた、
 魚住吉治は、三木の別所長治に属した、吉治の「治」は長治の偏諱を受けたものであろう。天正五年、別所長治は織田信長と交渉を持つようになり、織田信長の命により中国征伐の先導を受け持った。そして羽柴秀吉が総大将となって中国征伐が開始されたのである。長治は信長の期待に応え、秀吉は進攻後約一ヵ月で播磨の平定に成功し、いったん安土に戻り、翌年三月、再び播磨に兵を繰り出してきた。
 そのとき、長治は叔父吉親を名代として秀吉の陣所に出仕させた。吉治は、毛利氏攻略の方策をいろいろと献議したがいれられず、長治のもとに戻った吉親は信長と手を切り、毛利氏に属すべきことを説いたという。もっともそれだけが原因えはにだろうが、別所長治はそれまでの信長方から一転して毛利方となり、毛利方最前線として秀吉と対峙することとなった。これが史上有名な三木城の籠城戦である。
 三木城には明石・美嚢・加東・加西・加古・印南・飾東・飾西から兵が集まり、籠城の人数は八千を超えたといわれる。そのなかには、魚住左近の名もあり、籠城戦を戦った。以後、二年間にわたって、秀吉軍と戦ったが、結局城中の食糧が尽きて、天正八年八月、長治は城兵の命と引き替えに自刃し、三木城は落城した。そして、魚住氏もともに滅亡したという。
 いまでも、魚住を名乗る家は前記吉治の子孫だと伝えている。また、吉治の叔父忠純は広峰神社の神官となり、子孫は同職を世襲したという。

■略系図