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野仲氏
三つ巴
(宇都宮氏族)


 宇都宮宗房の三男伊予守重房が、建久六年(1195)、豊前国下毛郡野仲郷に入り、はじめ城井荘に尾屋敷城 (筑久江城)を築き、同九年、 津民荘に長岩城を築いて住し、その子孫が野仲を称した。 野仲氏からは、内尾・友枝・三尾母(みおも)・野依(のより) ・犬丸等の庶家が生まれという。しかし、伝存する史料に野仲氏が登場するのは、鎌倉時代後半の文永以降の史料で、その活動は断片的に知られるばかりである。
 残された史料から野仲氏の動向を探れば、嘉暦二年(1327)野仲郷司道氏が『小山田文書』にみえ、ついで、『野中文書』から南北朝時代初期の建武三年(1336)、野仲一族は惣領とともに足利尊氏に味方して玖珠城の大友貞順らを攻めたことが知られる。
 室町時代の応永十年(1403)ころ、野仲郷司弘道が大勢を率いて下毛保へ押し寄せ、神官神人等を刄傷したと訴えられた。ついで、永享二年(1430)の諫山郷末弘名主諫山道実の売券に、能登守弘道、掃部助兼道、清道、盛道らが証判を加えているが、いずれも野仲氏と思われる。
 やがて、戦国時代の永正九年(1512)、野仲興道が被官小友田又次郎の在洛中の勲功を賞し、官途を吹挙した。これは、大内義興に従って上洛したときの勲功と思われる。また、興道の「興」の字は義興からの一字拝領であろう。このころ、野仲氏は大内氏に服属して下毛郡代として勢力を振るっていたようだ。

戦乱のなかの野仲氏

 野仲氏は長岩城を居城として、本家宇都宮氏と共に豊前の一大勢力となり、室町時代になると豊前守護になった大内氏に臣従して郡代となり勢力を振るうようになった。ところが、天文二十年(1551)、大内義隆が重臣陶隆房によって殺された。ときの野仲興時は陶隆房改め晴賢に属したようで、天文二十二年、宇佐宮 放生会の奉行を勤めたことが知られる。その後、大友義鎮の弟義長が大内氏の養子となり家督を相続したため、野仲氏ら豊前の諸氏は大友氏に従った。
   弘治三年(1557)、大内義長が毛利元就に滅ぼされると、野仲鎮兼は大友氏に反旗を翻して長岩城に籠城した。しかし、大友義鎮に攻められ降伏した。その後、薩摩の島津氏が勢力を拡大し、島津氏も逐われた伊東氏が大友宗麟を頼った。結果として日向は島津氏が支配するところとなり、事態を重くみた大友宗麟は天正六年(1578)四月、日向へ攻め入った。大友氏は耳川の合戦に敗れ、隆盛を極めた大友氏には衰退の陰が大きく被うようになったのである。 その後、豊前の諸氏は大友氏を離脱し、天正七年、野仲鎮兼は軍を発し下毛郡を制圧した。
 天正十年、織田信長が本能寺で横死し、信長の天下統一事業を受け継いだのは豊臣秀吉であった。畿内・中国・四国を平定した秀吉は、九州制圧に乗り出しそれに抵抗した島津氏も秀吉に帰服した。その後、秀吉は新たな知行割りを行い、中津には黒田如水・長政父子が新領主として入部してきた。黒田如水・長政父子に対して、城井宇都宮氏は抵抗姿勢を示し、野仲鎮兼も宇都宮氏に加担したため、黒田氏に攻められ豊前の名門野仲氏も滅亡した。

参考資料:『下毛郡誌』・『三光村誌』・『耶馬渓町史』など】



大分歴史事典

■参考略系図
詳細系図不詳。  
  


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