朝岡氏
右三つ巴
(宇都宮氏支流)
 朝岡氏は下野の雄族、宇都宮氏の支族武茂氏の後裔で、同じく徳川家に仕えた大久保氏とは同族になる。国綱のとき三河国に移住し、さらにその曾孫泰元は吉良に移り住み、地名の朝岡によって、はじめて朝岡を称したという。
 泰弘のときに松平氏に仕え、その子の泰国は徳川家康に仕えたことが系図に記されている。戦国時代の動向は必ずしも華やかではなく、松平・徳川氏の仕えて、目立たない存在であったようだ。徳川幕府が成立すると中堅の旗本家となった。
 二代将軍秀忠の世に、朝岡泰勝は諸国から納入される金銀の処理業務についていた。泰勝には男子三人があり、長男勝国は父に先だって死んでいたため、家督はその子で孫にあたる国孝が継いだ。二男の泰直は五百石余の分知を受けて別家を立てた。
 ところが、国孝の子直国が妻の兄とのもつれから殺害されたとき、その子某が「はからいよろしからず、しかのみならず、その始終を糾明させられるの時にのぞみ、相違のことを申せしにより追放せらる」ということで、江戸在住を認められなかった。
 泰直の家は無事存続し、また直国の弟宇右衛門が父直国が殺される前に分与を受けていて、朝岡家としてはこの二家が後世に存続した。
 家紋はいずれも「三つ巴」を用い、また、「十六葉菊」「割り菊」「鳥居」などの替紋も用いていた。

■参考略系図