赤松円心の弟光村が萩原孫三郎を称したことに始まる。嫡子敦則は、揖西郡武山城主で、元弘の乱に活躍した。曾孫基定は赤松義則に属して数々の武功を挙げた。その功により、神東郡具村などを采地に加えて合わせて千五百貫を領した。嘉吉元年に起こった嘉吉の乱に差しては、赤松義雅に従ったが、敗れて城山城で自刃した。
基定の嫡子基知は須賀次郎左衛門を名乗り、子孫は須賀を名字とした。嘉吉の乱後、没落した赤松氏を再興した赤松政則に従った、その子知之は永正八年、船岡山の合戦で討死した。以後、代々置塩赤松氏に従った。
次男の知常は鯰尾大次郎を名乗り、嘉吉の乱後、赤松政則に仕えた。その子秀繁は藤尾を名乗り、永正八年。船岡山の合戦で功を挙げ、赤松政村感状を受け、采地の加増も受けた。
■略系図
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