北条氏のその後
 天正十八年(1590)七月五日、三か月余の籠城戦の挙句、北条氏は秀吉に降伏した。氏政・氏照兄弟は自刃し、当主氏直は高野山に入った。こうして戦国大名後北条氏は滅亡した。五代目当主とされる氏直が助命されたのは、家康の娘と結婚していたのも一因であろうが、秀吉は実質上の北条氏当主を氏政と見ていたのではないかと思われる。
 翌年、奇跡が起こった。氏直が赦されて一万石に封じられ、叔父氏規も河内丹南郡で二千石を与えられたのである。しかし、その直後の十一月、氏直は病没して、後北条家の嫡流は断絶した。一方、氏規は、文禄三年(1594)に丹南・河内両郡で六千九百八十石を宛行われ、その孫氏朝の代一万一千石となり、河内狭山藩として大名に列した。以後、子孫が封を継いで、北条の家名を後世に伝えた。
 それともう一家、北条氏が残った。氏綱の娘をめあわされて北条氏を称した、もと福島氏の綱成の系で、北条宗家没落後、遠州掛川三万石の大名となった。しかし、万治元年(1658)、綱成の曾孫氏勝の子氏重は嗣ないまま死に、家が絶えた。ただし、氏勝の弟で兄の養子となった繁広の家が三千四百石の旗本として残った。
 かつて関八州にその栄を誇った「三つ鱗(北条鱗)」の紋は、原形のまま狭山大名家に伝えられ、それに丸を加えた「丸に三つ鱗」が、旗本北条家の定紋となった。また、大名北条家は「伊勢平氏」が広く使った紋である揚羽蝶の変形紋である「北条向い蝶」も後代に伝えた。

■参考略系図

  



戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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